ガリツィア
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この項目では、東欧の地方について説明しています。スペインの自治州については「ガリシア州」をご覧ください。

ガリツィア
ヨーロッパ(濃い灰色)のガリツィア(緑色) の場所
1914年ガリツィア・ロドメリア王国の地図,

ガリツィア



ガリツィアの紋章



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リヴィウの中心部



ガリツィアの農村教会



オレシコ城

ガリツィア(ウクライナ語: Галичина、ハルィチナー、ポーランド語: Galicja ガリーツャ、ロシア語: Галиция ガリーツィヤ、ドイツ語: Galizien ガリーツィエン, ハンガリー語: Gaczorszag ガーチョルサーグ、英語: Galicia)は、現在のウクライナ南西部を中心とした地域である。18世紀末からポーランド最南部も含まれることもある。住民は主にウクライナ人でその多くは農民であり、少数のポーランド人貴族が大半の土地を所有していた。紅ルーシとも呼ばれた。現代では、東欧と旧ソヴィエト連邦の領域に跨る地域となっている。

「ガリツィア」という名称は、ラテン語化されたウクライナ語の「ハルィチナー」という名前に由来する。「ハルィチナー」は「ハールィチの国」または「ハールィチの土地」といった意味[1]で、西ウクライナにあるハールィチという町名を起源としている。単に「ガリツィア」と称する場合、1772年以降のハプスブルク君主国領邦を指すのが通例である。
概要
キエフ大公国時代

981年に、ヴラジーミル聖公によってキエフ大公国に編入された。1087年には、ハールィチ公国が置かれた。1200年には、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国(ハールィチ・ヴォロドィームィル公国)領となった。11世紀には、ポーランド王国の影響力が及ぶようになった。

キエフ大公国の崩壊後、ルーシの地にはリューリク朝の血縁関係による多くの公国が乱立して覇権を争った。そうした中、ハールィチ・ヴォルィーニ公国はドニエストル川沿いの都市ハールィチを中心に繁栄した。その領土となった一帯を指す「ガリツィア」という地名は、ハンガリーエンドレ2世(アンドラーシュ2世)によって使用され始めたラテン名だといわれる。13世紀当時、ハールィチ・ヴォルィーニ公国はハンガリーの影響下にあった。その後、中心都市はヘルム、リヴィウへと移っていき、ハールィチは廃れていった。
ポーランド・リトアニア時代

ハールィチ・ヴォルィーニ公国は最盛期にはルテニア・ウクライナ随一の勢力を誇ったが、ヴラジーミル大公国リトアニア大公国など他国との競合に敗れ滅亡した。1349年ハールィチ・ヴォルィーニ戦争では、カジミェシュ3世率いるポーランド王国にガリツィアとハールィチは共に編入され、リトアニアがヴォルィーニを獲得した。


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