ガリシア・ポルトガル語
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ガリシア・ポルトガル語

話される国
イベリア半島北西部
消滅時期ガリシア語ポルトガル語に分裂。
言語系統インド・ヨーロッパ語族

イタリック語派

ロマンス語

イベロ・ロマンス語

ガリシア・ポルトガル語




公的地位
公用語なし
統制機関なし
言語コード
ISO 639-2none
ISO 639-3なし

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ガリシア・ポルトガル語(ガリシア・ポルトガルご、ポルトガル語でgalego-portuguesまたはgalaico-portugues、ガリシア語でgalego-portuguesまたはgalaico-portuguesとしても知られている)または古ポルトガル語、中世ガリシア語(galego medieval)は、イベリア半島北西部で中世に話されていた言語で、現代のポルトガル語やガリシア語の母体となった言語である。ローマの属州ガラエキア(英語版)に、植民者によってもたらされ、その地で話されていた俗ラテン語に由来する言語で、ロマンス語の一つである。もとはドウロ川以北の大西洋側(現在のスペインのガリシア州と、アストゥリアス州レオン県サモーラ県などのガリシア州隣接地域、およびポルトガルのノルテ地方に相当の地域)で話されていた言語の総称で、後にレコンキスタでドウロ川の南に拡大した。現代のガリシア語ポルトガル語、エオナビア語(アストゥリアス・ガリシア語)、Fala de Estremadura、消滅したユダヤ・ポルトガル語の共通の祖先である。また、主に言語学の分野で現代のガリシア語、ポルトガル語の両語を指して、ロマンス諸語の下位言語グループのひとつとして「ガリシア・ポルトガル語」(スペイン語版)と呼ぶことも多いので注意が必要である。
言語
起源と歴史「ポルトガル語の歴史」も参照ガラエキア1000年から2000年にかけて近隣の言語との関係においてガリシア語(ガリシア/ポルトガル語)の後退と拡張を示す地図

ガリシア・ポルトガル語は古代ローマの属州ガラエキアに兵士や入植者、中央から派遣された行政官がこの地にもたらした俗ラテン語から発展した。その過程は他の地域よりゆっくりしたものだったが、二か国語併用の時代を過ぎた俗ラテン語と接した時代は、若干のガラエキアの特徴を残した様々な新しいラテン語の発展を導く先住民の言語を完全に消滅させた[1][2]。従ってケルト語派ルシタニア語[3]の発展は、俗ラテン語に同化し、このことはケルト語派イベリア起源の地名同様にガリシア・ポルトガル語の単語の幾つかに見出せる(例:ボルソ)。一般に教育を受けたヒスパノ・ローマ人エリートによるローマ系ヒスパニアで話された更に多くの教養ある様々なラテン語は、既にHispano oreやagrestius pronuntiansに関連してその地方特有のアクセントを持っていたようである[4]。更に多くの教養ある様々なラテン語は、民衆の多様性と共存した。それぞれが異なるローマヒスパニア地域で用いられた先住民により話された前ローマ諸語が、俗ラテン語のいくつかの方言の発展に寄与し、こうしたことがイベリア半島の初期のロマンス諸語に結局発展する時間を超えてますます広がったと推測される。600年までに俗ラテン語はもはやイベリア半島では話されなくなったと考えられている[5]。ガリシア・ポルトガル語の初期の形が、既にスエビ王国で話されていて、800年までにガリシア・ポルトガル語は既にイベリア半島北西部の日常語になっていた[5]。俗ラテン語におけるガリシア・ポルトガル語への発展を始めた音声学的変更として知られる最初のものは、ゲルマンによる支配の時代に(スエビ族(411年-585年)と西ゴート族(585年-711年))起きた[5]。そしてガリシア・ポルトガル語の鼻母音は、地元のケルト語が興隆する中で発展したのかも知れない(古フランス語のように)[6][7]。従ってこうしたものはローマ系ガラエキアで話された俗ラテン語の音韻論的特質であるが、6世紀から7世紀以降に書かれたものによる証明にすぎない[8]

ガリシア・ポルトガル語を含むポルトガル北部で発見された文書として知られる最古の古文書は、Doacao a Igreja de Sozelloと呼ばれ、870年に遡るが、その他の点で後期ラテン語に組み込まれている[9]。ガリシア・ポルトガル語も含む882年の別の文書は、Carta de dotacao e fundacao da Igreja de S. Miguel de Lardosaである[10]。事実ポルトガル語領域で書かれたラテン語の多くの文書は、ロマンス語の形式を含んでいる[11]。1175年に書かれたNoticia de fiadoresは、ガリシア・ポルトガル語で書かれた文書として知られる最古の文書と考える人がいる[12]。最近発見された(1173年以前に遡る可能性がある)Pacto dos irmaos Paisは、更に古いとさえ言われている。しかし熱中する学者がいるにもかかわらず、こうした文書は本当はガリシア・ポルトガル語で書かれていない事実が、後期ラテン語とガリシア・ポルトガル語の音韻論や形態論、統語論の混合であることを示している[13]。具体的な日付が不明なNoticia de Torto(1214年?)やTestamento de D. Afonso II(1214年6月27日)は、間違いなくガリシア・ポルトガル語である[12]。最初期の詩は(発見された古写本ではないが)、1195年から1225年に遡る。従って12世紀末から13世紀初頭までに地元のロマンス語で書かれた散文や韻文の文書がある。
文学詳細は「ガリシア・ポルトガル語の叙事詩(英語版)」を参照

ガリシア・ポルトガル語には同時代のフランスやイタリアのオック語の文学に匹敵する中世イベリア半島のキリスト教王国の文学における特別な役割があった。ガリシア・ポルトガル語の抒情詩の、現存する主な文献は以下の通りである。

カンティーガス・デ・サンタ・マリーア(英語)の現存する4冊の原稿

カンショネイロ・ダ・アジューダ(英語)

カンショネイロ・ダ・バティカーナ(英語)

カンショネイロ・ダ・ビブリオテーカ・ナショナル(英語)(Cancioneiro da Biblioteca Nacionalとしても知られる)(リスボン

この言語は12世紀末から概ね14世紀中葉まで現在のスペインとポルトガルで文芸のために用いられ、ほぼ例外なく抒情詩を構成するために用いられた唯一の言語であった。160を超える詩が記録され、その中で特に数名を例示すると、Bernal de Bonaval、Pero da Ponte、Johan Garcia de Guilhade、Johan Airas de Santiago、Pedr' Amigo de Sevilhaがいる。主な世俗主義的な詩の分野は、cantigas d'amor(男声の恋の抒情詩)や男友達の歌(女声の恋の抒情詩)、(個人的な毒舌から社会風刺やパロディー、文芸論争まで幅広い分野を含む)cantigas d'escarnho e de mal dizerであった[14]。全体で1700近い詩がこの3つの分野で残っている。400を超えるcantigas de Santa Maria(聖なる処女を記念した奇跡や賛美歌に関する物語詩)がある。カスティーリャのアルフォンソ10世は散文のためにカスティーリャ語を用いる一方でガリシア・ポルトガル語でcantigas de Santa Mariaとcantigas de escarnio e maldizerを作曲した。

ディニス1世王は世俗の詩の分野でも(他のどの作家より多い137本が現存する)著作をしていて、1290年にポルトガルでこの言語を公用語にした。その時までラテン語は王室の文書に用いられる公式の(書き)言葉であり、ディニス王の時代に「ポルトガル語」と名付けられるまでlingua vulgar(俗語)として単に知られている話し言葉は名前がなかった。「ガリシア・ポルトガル語」やportugues arcaico(「古ポルトガル語」)は、現代のポルトガル語とガリシア語の共通の祖先を示す現代の用語である。古代ギリシア語の方言における違いと比べて13世紀のポルトガル語とガリシア語の違いといわれるものは、些細なものである。
分岐

ポルトゥカーレ伯領が独立し、ポルトガル王国建国へと至り、レオン王国に従属していたガリシア王国と政治的に分断されるとガリシア・ポルトガル語はその統一性を徐々に失っていき、ガリシア語とポルトガル語はそれぞれ独立・独自の進化を続けていった。


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