ガラ人
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この項目では、アメリカ南部のアフリカ系アメリカ人について説明しています。エチオピア南部からケニア北部にかけて居住する民族については「オロモ人」をご覧ください。

ガラ人(ガラじん、Gullah)は、サウスカロライナ州ジョージア州の海岸沿い(ローカントリー)と群島の地域に住むアフリカ系アメリカ人である。歴史的に見て、ガラの地域は、北はノースカロライナ州の海岸のケープ・フィアー(Cape Fear)、南はフロリダ州の海岸のジャクソンビル周辺まで、一度拡大している。しかし今日、ガラの地域はサウスカロライナ州とジョージア州の海岸に限定されている。ガラ人は、特にジョージア州で、ギーチー(Geechee)とも呼ばれる。

ガラ人は、アメリカ合衆国の他のどの黒人のコミュニティよりも、アフリカの言語と文化の遺産が保存されていることで知られている。彼らは、多くのアフリカからの借用語と文法においてアフリカの言語から多大な影響を受けている、英語を基本にしたクレオール語であるガラ語を話す。ガラ語は、ジャマイカ語バハマ語、そして西アフリカのシエラレオネクリオ語とも関連している。また、ガラの語り部、料理、音楽、信仰、手芸、農業と漁業の伝統など、すべて強くアフリカの文化の影響を受けている。



「ガラ」と「ギーチー」

「ガラ」という名称は、ガラの先祖の多くの起源である南西アフリカの国、アンゴラから来たとされる。別の説では、ガラ族の先祖のいるもうひとつの地域である、西アフリカのシエラレオネとリベリアの国境地帯に住む民族集団のゴラ族(Gola)から来たとも言われている。「ギーチー」という名称は、ギニアシエラレオネリベリアの国境地帯に住むギージー族(Kissi)が由来とされる。他の説では、ネイティブ・アメリカンの言葉に由来しているとする説もあり、スペイン人がサウスカロライナ州とジョージア州の海岸の一帯を、そこに住む部族の名前からグアレ(Guale)と呼び、ジョージア州の海岸地帯に流れる川を、クリークインディアンの言葉を使ってオギーチー川(Ogeechee River)と呼んだ。このように諸説あるが、いずれもガラとガラ文化はアフリカ大陸と強い結びつきがあることははっきりしている。
アフリカのルーツ

ガラの先祖の大部分は、チャールストンサバンナの港を通って、サウスカロライナ州とジョージア州の海岸沿いの地域に連れてこられた。チャールストンは大西洋奴隷貿易における北アメリカの最も重要な港で、現在のアメリカ合衆国に連れて来られた奴隷のアフリカ人のおよそ半分が、このひとつの港から来ている。サバンナもまた活発だったが、チャールストンに比べると非常に規模は小さい。

チャールストンとサバンナに連れられたアフリカ人の最大のグループは、北は現在のセネガルガンビアギニアビサウから、南はギニアシエラレオネリベリアまでの、西アフリカの米作地帯から来ていた。サウスカロライナとジョージアのコメの農園主は、一度この地域を「ライス・コースト(Rice Coast)」と呼んだ。これは米作の技術の熟練したアフリカ人労働者の源として重要性を表している。しかし現代の歴史家は「アッパー・ギニア・コースト)」と呼ぶ。これらの港に連れられた二番目に多いアフリカ人のグループは、アフリカ南部のアンゴラから来ており、その他少数として、ゴールド・コースト(現在のガーナ)や西インド諸島から来ている。
ガラ文化の起源

ガラ人は、地理と気候のために、多くのアフリカ文化の遺産を保存できた。1700年代中ごろまでには、サウスカロライナ州ジョージア州の沿岸部(ローカントリー)は数千エーカーものコメ農地に覆われ、「ライス・コースト」出身のアフリカの農民たちが持ち込んだ技術は、コメ生産を初期のアメリカでもっとも成功した産業のひとつにした。しかしローカントリーをそんなコメ生産の素晴らしい場所にした亜熱帯の気候は、マラリア黄熱も普及させた。これらの熱帯病は、何気なく奴隷船でアフリカから運ばれた蚊が持ち込んだものだった。蚊は湿地帯で繁殖し、ローカントリーのコメ農地に殺到した。マラリアと黄熱は、すぐに地域の風土病となった。

アフリカ人たちは、ヨーロッパ人の奴隷所有者に比べると遥かに熱帯病に対して抵抗力があった。ローカントリーの白人人口は、黒人人口よりもゆっくりと増えた。コメ産業が拡張するにつれて、ますます多くのアフリカ人がローカントリーに連れて来られ、およそ1708年までにサウスカロライナ州が、1700年代半ばには、ジョージア州の海岸地域でも黒人が過半数を占めるようになった。病気を恐れて、多くの白人農園主は、熱病が大流行した春と夏にはローカントリーを去り、監督者を置き去りにした状態でアフリカ人は農園を管理した。ヴァージニア州やノースカロライナ州のように白人が大多数を占める植民地での奴隷たちよりも、白人との接触が少なかったため、ガラ人はアフリカの言語、文化、共同生活をはるかに高度に保持することができた。
ガラ人の習慣と伝統

アフリカの影響はガラの伝統のある生活のあらゆる所に見ることができる。

「レッドライス」と呼ばれるガラ人のコメ料理と「オクラのスープ」は、西アフリカの「
ジョロフライス」とオクラスープによく似ている。ジョロフライスは西アフリカのウォロフ族とマンデ人が持ち込んだ料理法である。


ガンボ」のガラ人によるバージョンは、アフリカ料理に起源がある。「ガンボ(gumbo)」は、オクラを意味するアンゴラのウンブンドゥ語の単語に由来している。


ガラの米作農民は、かつて乳鉢とラナー(ザルのようなカゴ)を使用した。これは西アフリカの米作農民が使用していた道具と同様である。


ハグ」(hags)、「ハウント」(haunts)、「プラットアイ」(plat-eyes)などのガラ人の信仰は、アフリカにおける邪悪な先祖、魔女、悪魔(森の精)の信仰とよく似ている。


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