ガラテイアの勝利
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『ガラテイアの勝利』イタリア語: Trionfo di Galatea
英語: Triumph of Galatea

作者ラファエロ・サンティ
製作年1512年
種類フレスコ
寸法295 cm × 225 cm (116 in × 89 in)
所蔵ヴィラ・ファルネジーナローマ
『ポリュペモス』(左)と『ガラテイアの勝利』。部分、画面中央下、前景に置かれたパライモン部分、腕を振り上げるネレイスガラテイアの勝利とラファエロ・サンティの肖像がデザインされている500000リラ紙幣

『ガラテイアの勝利』(イタリア語: Trionfo di Galatea, : Triumph of Galatea)は、イタリア盛期ルネサンスの巨匠ラファエロ・サンティ1512年頃に制作したフレスコ画(295x225 cm)である。一説には1514年頃に完成したとされる[1]。主題はギリシア神話の海のニンフであるガラテイアから取られており、ローマトラステヴェレヴィラ・ファルネジーナの《ガラテイアの間(La Loggia di Galatea)》においてセバスティアーノ・デル・ピオンボの『ポリュペモス(イタリア語版)』(Polifemo)の対として描かれている。

日本語では『ガラテアの勝利』[2]、『ガラティアの勝利』[3] などとも表記されることがある。
歴史

極めて富裕な銀行家であったアゴスティーノ・キージ(英語版)は、バルダッサーレ・ペルッツィに委嘱し、ルンガラ通り(イタリア語版)とテヴェレ川に挟まれ、庭園に囲まれた敷地に、1509年から1512年にかけて壮麗な屋敷ヴィラ・ディ・デリツィエ(Villa di delizie:「歓喜荘」の意)を建設した。この建物は後にヴィラ・デラ・ファルネジーナ(Villa della Farnesina)と称されるようになった。

建物の完成後、直ちに絵画による装飾が始まり、ペルッツィ自身のほか、当時ローマで活動していた最高の画家たちであったセバスティアーノ・デル・ピオンボ、ソドマ、そしてラファエロらがこの事業に関心を寄せて参加した。

当時、ローマ教皇ユリウス2世の依頼で、バチカン署名の間とヘリオドロスの間の装飾も手がけていたラファエロは、ヴィラの1階にあるいわゆるガラテイアの間に、この神話の主題によるフレスコ画の制作を委ねられた。ニンフであるガラテイアの勝利に捧げられたこの作品は、長方形で、セバスティアーノ・デル・ピオンボが手がけたルネット(円頂部)の下にあり、また、同じくデル・ピオンボが手がけた『ポリュペモス』の側面に位置している。建築の構造に関わる部分と天井画は、バルダッサーレ・ペルッツィとその弟子たちの作品である[4]

おそらく最初の計画では、このニンフの事績の他の場面も描いて、壁を飾るはずだったのであろう。しかし、そうはならなかったため、2点の既存のフレスコ画は、彼女の物語の主要な出来事を描写しておらず、彼女が神格化されていくのを、隣の中のポリュペモスは何もできないままでいる。

1511年の時点では、この場面は確かに完成していたか、少なくともにかなり完成度が高い段階にあり、同年に出版されたギャロ (Gallo) の『De viridario Augustini Chigi... libellus』の中でも紹介されていた。バルダッサーレ・カスティリオーネは、ラファエルが描いたガラテイアの完成度に魅了され、モデルは誰だったのかとラファエルに問うたが、ラファエルは「いない」と答え、ただ自分が頭の中で創造した結果だと述べたという[1][5]。ラファエロは、ピエトロ・アレティーノに口述筆記してもらったバルダッサーレ・カスティリオーネへの手紙の中で、「美人を見つけ出すためには、多数の美人たちを見なければなりませんが、もし貴方様が私とともにいらっしゃっていれば最善のひとりを選ぶこともできたかもしれません。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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