ガブリエル・タルキーニ
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ガブリエル・タルキーニ
(2014年 FIA WTCC レース・オブ・ベルギーにて)
基本情報
国籍 イタリア
生年月日 (1962-03-02) 1962年3月2日(62歳)
出身地同・ジュリアノーヴァ
世界ツーリングカーカップでの経歴
デビュー2005
所属BRC Racing Team
車番30
過去所属ラーダ・スポーツ・ロスネフチ
ルクオイル
Lukoil-SUNRED
セアト・スポーツ
アルファロメオ
出走回数271
優勝回数22
ポールポジション18
ファステストラップ25
シリーズ最高順位1位 (2009, 2018)

基本情報
F1での経歴
活動時期1987,1988-1992,1995
所属チーム'87 オゼッラ
'88 コローニ
'89 ファースト
'89-'91 AGS
'91-'92 フォンドメタル
'95 ティレル
出走回数79 (38スタート)
優勝回数0
表彰台(3位以内)回数0
通算獲得ポイント1
ポールポジション0
ファステストラップ0
初戦1987年サンマリノGP
最終戦1995年ヨーロッパGP
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ガブリエル・タルキーニ(Gabriele Tarquini, 1962年3月2日 - )は、イタリアアブルッツォ州・ジュリアノーヴァ出身の元レーシングドライバー

イタリア語読みではガブリエーレ・タルクィーニが近い表記となる。他にもファーストネームは、ガブリエールやガブリエレと記されることもある。

白地に黒いラインをクモの巣状に張り巡らせたヘルメットデザインがトレードマークだが、これはコミックスパイダーマン』の大ファンだったことに由来し、カート少年時代に自ら考案したものである[1]タルキーニのヘルメット
経歴
初期の経歴

レーシングカートでキャリアを重ね、1983年にチームFernando Spreaficoのラルト・RT3トヨタイタリアF3選手権に進出。翌1984年も同体制で挑むが、F3では大きな戦果を得られなかった。
F3000

1985年、サンレモ・レーシングに移籍。国際F3000選手権へとステップアップしマーチ・85Bコスワースでフル参戦。開幕戦から連続入賞し第3戦エストリルで3位表彰台を獲得するなど頭角を現し、ランキング6位となる。

1986年コローニへと移籍、マーチ・コスワースで3位表彰台を1度獲得したが、コローニ内では近い将来のF1参戦計画が進行中で、チームリソースがF1シャシーの制作に注がれていた影響も受けF3000ランキングは前年より下降し10位となった。1987年にファースト・レーシングに移籍し、F3000での3年目の参戦。第9戦で最高位更新となる2位を獲得しランキング8位を得た。
F1

1987年5月、イタリアのプライペイターであるオゼッラから第2戦サンマリノグランプリにスポット参戦、決勝はギアボックストラブル発生の為リタイアしたがF1デビューを果たした。

1988年、F3000時代に所属しておりF1へと参入開始したイタリアの小規模チーム・コローニへと「復帰」しF1フル参戦。下位チームの中でも特に低域とされるチームからのF1参戦だったが、半数となる8戦で予選を通過した。

1989年、前所属のコローニと同じく、タルキーニがF3000時代に所属し、F1進出計画が進められシャーシも完成しつつあったファースト・レーシングと契約を結んだが、予算不足でマシンを完成させられなかったために第1戦ブラジルを欠場すると、そのままチームが消滅してしまった。第2戦サンマリノから、シーズン前のリオテストで負傷したフィリップ・ストレイフの代役としてフランスのAGSに移籍した。AGSでの前半は好調で、第4戦メキシコGPでは6位入賞しポイント獲得を果たす。しかし第8戦イギリスGPで予選落ちすると、それ以後は全て予備予選落ちを喫することとなった。しかしチームからは信頼を勝ちとり、9月に来季の契約延長を発表[2]1990年もAGSから参戦するが、決勝への進出は4度に終わった。

1991年もAGSと契約延長し、非力な体制であったが得意とする市街地コースでの開催だった開幕戦アメリカGPで8位完走する技術を見せた。しかしマシンの相対的な戦闘力は他チームより見劣りし、同年の決勝進出は序盤戦の3度に留まった(ただし、この年AGSを駆った4人のドライバーの中で、決勝を走ることが出来たのはタルキーニ1人だけである)。第14戦スペインGPから、運営資金面ではAGSより状態の良いフォンドメタルに移籍[3]、残る3戦中2戦で予選を通過。翌1992年も同チームから参戦する。下位チームでありながらほぼ毎戦中盤グリッドを獲得し、第12戦ベルギーGPでは予選11位につけるなど、時折その実力をのぞかせた。しかし、決勝ではフォンドメタル・GR02の完走能力の低さからリタイヤが続き、完走は1回のみとなった。結局第13戦イタリアGPを最後とし、残り3戦を残した時点でチームの運営資金問題が生じ、フォンドメタルはF1から撤退。タルキーニはF1シートを失った。

その後はツーリングカーレースに転向することとなるが、1995年にはF1復帰を目指してティレルのオーディションに参加。レギュラー契約はならなかったが、テストドライバーとなりポルトガルGPで負傷した片山右京の代役として、ヨーロッパGPの1戦のみティレルからF1復帰。このグランプリがタルキーニにとって最後のF1となった。2008年ブランズハッチにて。セアト・レオンを駆るタルキーニ。
ツーリングカー

1994年ツーリングカーレースに移り、同年はアルファロメオを駆ってイギリスツーリングカー選手権(BTCC)に参戦した[4]。この年タルキーニは、開幕5連勝を含め8勝をマークする圧倒的強さでチャンピオンを獲得する。

1995年・1996年はクラス1ツーリングのDTM及びITCをメインに戦い、BTCCにはスポットで参戦。クラス1消滅後は、イギリス選手権に並行しイタリア選手権にも参戦し、イギリス選手権では1990年代後半はデビッド・リチャーズプロドライブチームに所属した。この時期はホンダ車を駆ったが、それを除くとアルファロメオに乗ることが多く、イタリア選手権、2000年代に入って以後のヨーロッパツーリングカー選手権(ETCC)でも引き続きアルファロメオを駆った。

2003年にはそのETCCでチャンピオンタイトルを獲得し、その後も、しばしばアンディ・プリオールらに伍した。

同選手権が世界ツーリングカー選手権(WTCC)となった2005年まではアルファロメオに所属したが、2006年セアトに移籍した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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