ガッツ石松
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ガッツ石松基本情報
本名鈴木 有二(すずき ゆうじ)
通称鈴木石松
階級ライト級
身長172cm
リーチ172cm
国籍 日本
誕生日 (1949-06-05) 1949年6月5日(74歳)
出身地栃木県上都賀郡粟野町(現在の鹿沼市
家族鈴木佑季(娘)
スタイルオーソドックス
プロボクシング戦績
総試合数51
勝ち31
KO勝ち17
敗け14
引き分け6
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ガッツ 石松(ガッツ いしまつ、1949年昭和24年〉6月5日[1] - )は、日本男性俳優タレント政治活動家広島国際学院大学現代社会学部客員教授。元プロボクサー。元WBC世界ライト級王者。本名は鈴木 有二(すずき ゆうじ)。栃木県上都賀郡清洲村粟野町(現在の鹿沼市)出身[2]。株式会社 ガッツ・エンタープライズ代表取締役社長であり、ガッツ・エンタープライズ所属。タレントの鈴木佑季は長女。
概要

ガッツ石松はヨネクラボクシングジム所属で、アジア人で初のWBC世界ライト級チャンピオンだった。当時はWBCとWBAの2団体しかない時代で、ライト級は非常に層が厚い階級だったが、世界の強豪を抑えてタイトルを5度防衛した。ボクサーとしての生涯戦績は、51戦31勝(17KO)14敗6分。

ボクシング引退後はタレント、俳優として長く活動している。

1996年森喜朗の勧めで第41回衆議院議員総選挙東京都第9区から自由民主党公認で立候補したが落選した。

粟野町役場庁舎内(現在、鹿沼市役所粟野支所庁舎)に、「粟野町出身の名誉人」として、額入りの顔写真を掲げられている。
来歴
ボクサー時代まで

中学生時代は学校の体育の教師を夢見ていたが、家庭の経済的事情のため進学を断念し、中学卒業とともに上京。様々な職業を転々としながら、ボクシング修行を続ける。

最初のプロテスト不合格を経て1966年12月11日に藤原正夫(堀口)に1回KO勝ちでプロデビュー。当時のリングネームは鈴木石松。「石松」の由来は「死んでも直らないほどのおっちょこちょい」という森の石松である。4回戦時代は当初、勝ったり負けたりの状態であり、1回KO負け(1967年8月9日、村林桂次(木村)戦)の経験もある。後にヨネクラジムと契約していたエディ・タウンゼントの教えを受けている。

1969年、全日本ライト級新人王。同期の新人王にウェルター級の輪島功一がいた。

1970年1月25日、世界王座挑戦がほぼ決まっていた、東洋ライト級王者・ジャガー柿沢(中村)の前哨戦の相手に選ばれるが、番狂わせの一方的な判定勝ちを収め、柿沢に代わって世界挑戦権を得る。

1970年6月6日、パナマWBA・WBC世界ライト級王座挑戦。イスマエル・ラグナ(パナマ)に13回TKO負けを喫する。

1971年3月3日、日本ライト級王者高山将孝(堀口)に挑むが、10回引分でタイトル奪取ならず。

1972年1月16日、5か月前にKO負けしている門田新一(三迫)の東洋ライト級タイトルに挑戦。今度は判定勝ちで王座奪取する。試合後「今の目標は、生意気ですが、ブキャナン(当時WBA王者)です」と語ったが、3年後には王者としてこのブキャナンの挑戦を受けることになる。東洋ライト級王者となった後、池袋白タクの利権がらみで弟にからんだトラック運転手等15人を相手に喧嘩をし、2人をKOしたという事件(俗に言う池袋乱闘事件)を起こし[3][4]、現行犯逮捕された(後に正当防衛を認められ釈放された)。その時の事情聴取でガッツは「チャンピオンは“いついかなる時でも誰の挑戦でも受けなければならない”[5]と賞状に書いてある」と供述した[6]。その後2日間勾留されたが、プロボクサーライセンス剥奪には至らなかった[6]

1973年9月8日、WBA世界ライト級王座挑戦。石の拳ロベルト・デュラン(パナマ)の持つ世界ライト級王座に敵地パナマで挑戦し、10回KO負け[文献 1]。試合の勝敗以前にガッツの「パナマのリングは暑くてスタミナが持たない、こりゃ勝てない」という諦めの早さに米倉健司会長は怒ったという。しかしガッツは全盛期のデュランとの戦いで「世界チャンピオンは確かに強いがこんなものか。技術的にはそんなに劣っていない!自分のスタミナさえあれば勝てない相手ではない」とボクシングの悟りをひらいたと言う。

当時はこのように、試合で少しでも形勢が悪くなると試合放棄に近い行動を取り勝てる試合を落としたり(日本の世界王者の中でチャンピオンになる前に10敗以上しているのはガッツのみである)、ランニングが嫌いで「ランニング行って来ると言ってはジムを出て帰りに水を被ってくる(本人談)」ということがしばしばあったため、ジム側が「ガッツのあるボクサーになってくれるように」との思いを込めて「ガッツ石松」にリングネームを改める。

1974年4月11日、東京・日大講堂で、WBC世界ライト級王座挑戦。ロドルフォ・ゴンザレスメキシコ)に8回KO勝ちで王座奪取[文献 2]。戦績59勝50KO5敗、しかもその前5年間の敗北は一階級上の名王者アントニオ・セルバンテスコロンビア)に喫した1敗のみという王者に対し、ガッツの戦績は26勝14KO11敗6分であったため、下馬評はガッツは99%勝てない。と言われる程の圧倒的不利の予想であった。だが、試合が始まってみると、ガッツは絶好調で、毎回ほぼ互角の打ち合いが続いた。8回、ガッツのパンチを吸収し、動きがやや重くなった王者に対し、ガッツは強烈な左フックをヒット、ロープに下がった王者にすかさず左右を連打しダウンを奪った。ややレフェリーのカウントはロング気味で、何とか立ち上がったゴンザレスから、すかさずガッツは2度目のダウンを奪う。ところが、レフェリーはこれを「スリップ」と判断し、なおかつキャンバスに倒れた王者を助け起こすルール違反を犯す。セコンドの米倉健司エディ・タウンゼントらが激高、抗議のためリングに上がりかけるほどの事態だったが、ガッツは冷静に「大丈夫。倒すから」とセコンド陣を制したのち、その言葉どおりにコーナーでゴンザレスを乱打して、今度こそキャンバスに完全に沈めた。最初のダウンを奪ったパンチは、本人曰く「ワンツーパンチ」だが、左・右を繰り出す間隔が短く相手には右腕の動きが見切れないことから、“幻の右”と評された(試合後のインタビューで自ら語っていたという説もある)。トレーナーのエディ・タウンゼントも「今日のイシマツ、新しい力入ったのよ。」と驚いたほどの会心の出来だった。この試合は本来3か月前に行われるはずであったが、ゴンザレスがクモに噛まれたために延期になった。後に、ガッツは「この3か月の延期によってスタミナを付けることができた。私には運があった。


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