座標: .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯59度34分 東経30度08分 / 北緯59.567度 東経30.133度 / 59.567; 30.133
町旗町章
位置
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}ガッチナガッチナ (レニングラード州)レニングラード州の地図を表示ガッチナガッチナ (ロシア)ロシアの地図を表示
行政
国 ロシア
レニングラード州
地区ガッチナ地区
町ガッチナ
地理
面積
町域32.36[1] km2
人口
人口(2021年現在)
町域94,377人
人口密度 2,916人/km2
備考[1]
その他
等時帯モスクワ時間 (UTC+3)
ガッチナ(ガーッチナ、ガトチナ、ガートチナ、ガチナ、ロシア語: Га?тчина、ラテン文字表記の例: Gatchina; フィンランド語: Hatsina)は、ロシア・レニングラード州の州都[2]。人口は9万4377人(2021年[1])。
州西部に位置している。サンクトペテルブルクからは南へ45kmの近郊にあり、サンクトペテルブルクとプスコフを結ぶ道路や鉄道が通る。
ガッチナの町は、ロシア皇族の夏の邸宅の一つであるガッチナ宮殿で知られ、ロシアの歴史の舞台ともなってきた。同宮殿はユネスコの世界遺産「サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群」のうちの一つである[3]。
歴史19世紀のガッチナ宮殿ガッチナ宮殿の内装(1877年の水彩画)
フィン人の言葉ではハツィナ(フィンランド語: Hatsina)と呼ばれる。ガッチナの古名ホトチノ(Хотчино, Khotchino)は1499年の記録に初出しており、当時はノヴゴロドの領土だった。17世紀にはイングリア(現在のレニングラード州一帯)は各国の争奪の対象となった。リヴォニアからスウェーデンへ渡り、最終的には大北方戦争によってロシア領となった。18世紀初期、新首都サンクトペテルブルクがネヴァ川河口に築かれ、その近郊にあたるガッチナは1708年にツァーリ・ピョートル1世から妹のナタリヤ・アレクセーエヴナに贈られた[4]。1716年にナタリヤが死ぬと、ピョートル1世はこの地に病院等を建てている。 1765年、エカチェリーナ2世はガッチナおよび周囲20か村を購入し、お気に入りの軍人グリゴリー・オルロフに与えた。1766年から1788年にかけ、オルロフは600室以上もある[5]重々しい宮殿を建設し、7平方km以上の面積を有し動物園や厩舎も備える広大なイギリス式庭園を築いた。アントニオ・リナルディ設計による凱旋門は、モスクワでの疫病発生の際にオルロフが奮闘したことに対してエカチェリーナ2世から贈られたもので、1777年から1782年にかけて建設されている。この凱旋門は宮殿の印象的な入口をなしている。ガッチナ宮殿は後にさまざまな皇族が増築していった。内装はリナルディおよびヴィンチェンツォ・ブレナが設計したロココ様式で、イタリア人のスタッコ職人やロシア人の職人が手がけた。寄せ木張りの床、天井画の描かれた天井、イタリア製の家具などが室内を飾っていた[6]。 エカチェリーナ2世はガッチナ宮殿とその庭園を愛し、1783年にオルロフが没すると相続人から宮殿を買い上げ、息子で将来のツァーリとなるパーヴェル・ペトロヴィチ(パーヴェル1世)に与えた。 パーヴェル1世は18年間ガッチナ宮殿を所有した。皇太子時代のパーヴェルは自らの財産を投じ、ヨーロッパ旅行の経験を生かして、ガッチナの町と宮殿をロシアの模範となるよう増改築していった。1790年代には宮殿を拡大したうえでほぼ改築し、内装も新古典主義様式へと改めた。また庭園には橋、門、パビリオンなどを多数追加していった。パーヴェルは父のピョートル3世同様にプロイセン王国に傾倒しており、エカチェリーナ2世のプロイセンに対する嫌悪にもかかわらず、宮殿も兵士もプロイセン風にさせて閲兵を楽しんだ。
ガッチナ宮殿