ガダラのメレアグロス
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ガダラのメレアグロス(古代ギリシア語: Μελ?αγρο? ? Γαδαρε??, 紀元前130年頃 - 前80年頃、最盛期:紀元前1世紀[注釈 1])は、詩人であり、エピグラム詩の蒐集家で編纂者である。彼は、今日散失して失われた、幾つかの風刺文学風の散文を記し、複数の官能的な詩を書いたが、それらのなかの134編ほどのエピグラムが残っている。彼はまた様々な詩人の夥しい数のエピグラム詩を編纂して、『花冠』(ΣΤΕΦΑΝΟΣ、Στ?φανο?、ステパノス)として知られるアンソロジー詩集[注釈 2]を造った。このアンソロジー詩集は現存しないが、『ギリシア詞華集』の元となったオリジナルの詞華集である。
生涯メレアグロスの生涯に関係する土地。ガダラ(誕生地)。テュロス(青年時代を過ごし、学習した都市)。コス(残りの生涯を過ごし、その地に没した島)

メレアグロスはエウクラテースの息子であり、シリア(現ヨルダンの領域)のガダラの都市に生まれた(ガダラは、現在のウム・カイス(英語版)に位置した。ただし今日、ガダラは遺跡が残るのみである)。ガダラは当時、部分的にギリシア化した共同体都市であり、「ギリシア文化への目覚ましい貢献」によって注目された都市だった[2]。彼はテュロスで教育を受けてその地で居住した。引退して後、晩年にコス[要曖昧さ回避]で過ごし[3]、その地で長寿をたもち死去した(70歳ほどであったと考えられる)。彼が書いた短い自伝的な詩によると、メレアグロスは自分の故郷の町に誇りを抱き、自分自身はコスモポリタン(世界市民)であると自認していた。彼は「アッティカ的」(すなわち、ヘレニズム人)であり、同時にシリア人であった。また彼は、[彼を]一人前にしたテュロスを、[彼の]晩年の面倒を見てくれたコスを称えた[4]

『ギリシア詞華集』の「パラティン手稿」において、スコリア(英語版)の筆者[注釈 3]が、メレアグロスはセレウコス6世エピパネス(在位紀元前95年?前93年)の統治の時代に最盛期を迎えたと述べている。「花冠詞華集」における彼の編集のもっとも古い年代は、紀元前60年である。詩人ガダラのフィロデモスについて言うと、後の編集者たちによって34編のエピグラム詩が加えられたとはいえ、メレアグロスの原詞華集には作品が載っていなかった[注釈 4]

何人かの著作者はメレアグロスをキュニコス派に属するとしており[5]、歴史学者ベンジャミン・アイザック(英語版)によれば、「万人は平等であり、また同胞である」というメレアグロスの信念はこの見解を補強する。というのは、幾人かのキュニコス派の人々は、遅くとも紀元前5世紀には、このような世界観をすでに抱懐していたからである[6]。彼の同郷の人であるメニッポスと同様に、メレアグロスは「スプーダイオゲロイア」(単数:σπουδαιογ?λοιον[注釈 5])[滑稽真摯論述][注釈 6]として知られる、ユーモラスなイラストと共に哲学を大衆的な形に表現する、風刺的散文エッセイを書いた。これらの作品はすべて失われた。メレアグロスの名声は、彼が編んだ「詞華集」にみずから収録した、134編の自作のエピグラム詩によって確固として支えられている。『ギリシア詞華集』の手稿写本だけが、彼のエピグラム詩の源泉である[9]
ヘレニズムの世界市民

メレアグロスは地中海東岸のシリアからエジプトにわたる領域に居住した。ガダラに生まれ、テュロスでその人生の大部分を過ごしたが、彼は当時の地中海世界の共通語であるコイネー・ギリシア語に精通していた。彼は、みずからの自伝的な複数の詩で語るところでは、トリリンガルであり、ギリシア語シリア語、そしてフェニキア語を話した[3][10]

彼はテュロスに居住し、シリアからアナトリア半島に至る東地中海を活動範囲としていたが、彼の構想によって、はじめて包括的なギリシア語詞華集が編まれ、ヘレニズム世界の広範囲な領域に生きる男女の詩人の作品アンソロジーが生み出された。
メレアグロスの『花冠』


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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