ガズニー
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位置
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ガズニー(Ghazni, ダリー語: ????, Ghazn?)はアフガニスタンの都市。ガズニー州の州都。人口は270,000人 (2019年の公式推計 ⇒[1])。ペルシア語、アラビア語ではガズニーン(アラビア語: ?????, ラテン文字転写: Ghazn?n)とガズナ(アラビア語: ????, ラテン文字転写: Ghazna)の双方で呼ばれた。
カーブルとカンダハールの間に位置する交通の要所。標高約2220メートルの高地にある。商工業が盛んなほか、農作物の集散地としての役割も果たす。約130キロ北東にカーブルが位置している。住民はパシュトゥーン人が多く、ハザーラ人とタジク人がそれに続く。 古代の地理学者プトレマイオスも、この街を「ガザカ」(古代ギリシア語: Κο?αζνα)として記録している。また、唐僧の玄奘が著した『大唐西域記』にも「鶴悉那」として言及が見られる。9世紀後半までカンダハールからガズナの地域(現ザーブル州)はザーブリスターン
歴史
その後、幾度かの統治者交代を経て、19世紀後半の第一次アフガン戦争ではイギリスによって攻略され、植民地の拠点の1つとなった。20世紀初頭にアフガニスタンが独立を果たすと、アフガニスタンに帰属する都市になった。 2018年8月9日 - ターリバーンがガズニー市街地を襲撃、政府軍と大規模な交戦状態となった。政府軍はアメリカ空軍の支援を受けてターリバーンの撃退を試みるものの戦闘は4日以上続き、治安部隊側に100人以上、市民数十人、ターリバーン側に200人近く、計310人以上が死亡する規模となった[1]。 2021年8月12日 - アメリカ軍の撤退が進む中でターリバーンが反攻。ガズニーを支配下に置いた[2]。 遥かな昔から、ガズニーはカーブル攻略に欠かせない重要な関門とみなされて来た。経済的にも軍事的にも重要な位置にあるガズニーは、かつての目の眩むほどのものではなくても、近い将来かならずや繁栄を取り戻すことであろう。 ガズニーに現存する重要な遺跡には、ガズナ朝の皇帝マフムードの廟や、アブー・ライハーン・アル・ビールーニーの墓などが挙げられる。 ガズナ朝の建築物で往時の姿を留めているのが、2本のミナレットである。高さは約43 mで365 m隔たって並んでいる。学術的調査によれば、皇帝マフムードとその息子によって建築されたものである。1960年代には全長15 mの菩薩像が発掘されている。当時、ターリバーンは、遺跡の保護のために係官を派遣してはいたが、アフガニスタン内戦時に菩薩像は深刻な盗掘の被害を受けている。
政府軍とターリバーンとの戦闘
遺跡