ガスパル・デ・ポルトラ・ロビラ(スペイン語: Gaspar de Portola Rovira, カタルーニャ語: Gaspar de Portola i Rovira, 1716年 - 1786年)は、スペインの軍人・ヌエバ・エスパーニャの管理職で、アルタ・カリフォルニアの初代総督であった。スペインによるアメリカ大陸の植民地化のための陸路および海路の探検の司令官として、サンディエゴとモントレーに駐屯地を建設した。また、サンディエゴからサンフランシスコまで最初の陸路の探検隊を率いた。その途上、多くの土地に命名し、その多くは現在も使われている[1]。 ポルトラは1716年1月1日にスペインのカタルーニャ地方、現リェイダ県の Os de Balaguer でカタルーニャ人貴族の家に生まれた。ガスパルはイタリアとポルトガルにあるスペイン軍の兵士として働いた。1734年に少尉、1734年に中尉に昇格した。 1767年までにイエズス会宣教師はバハ・カリフォルニア半島に伝道所を築いたが、イエズス会が蓄財して強大になりつつあるといううわさが流れた。ほぼ世界的におきたイエズス会に対する迫害の一環として、カルロス3世はイエズス会士を追い払い、イタリアの教皇領へ退去させるように命じた。王の命令に従って、ヌエバ・エスパーニャ副王は伝道所にいるすべてのイエズス会士を捕えるように命じた。ポルトラはイエズス会士を追い払うための責任者となった。伝道所はフランシスコ会および後にはドミニコ会に与えられた。 スペインは、バハ・カリフォルニア半島より北の太平洋岸に伝道所やその他の入植地を設立して、そこが他国の領土して宣言されるのを防ごうとしていた。イギリス人はすでに北アメリカ大陸東岸とその北の現在のカナダに植民地を設立していたが、太平洋岸にも探検者を送り込んできた。ロシアの毛皮猟師はシベリアからベーリング海峡を渡ってアリューシャン列島やさらに東部へやってきた。 1768年1月23日にカルロス王と副王の間で文書が交され、スペインが太平洋岸に沿って北へ支配を拡大し、早期の探検者であるフアン・ロドリゲス・カブリリョやセバスティアン・ビスカイノによって報告されていたサンディエゴ湾 1769年1月10日に、第1の船であるサンカルロス号がラパスを出港した。第2のサンアントニオ号は2月15日にサンルーカス岬を発った。同時に、陸路探検隊を構成する集団がロレトから北へと移動を始めた。陸路の探検隊はセラが最初の伝道所を設立したベリカタに集合し、ポルトラの計画によって隊は二手に分かれた。主班は馬車の通れる道を建設し、原住民を慰撫することを目的とし、フェルナンド・リベラ・イ・モンカダに率いられて、3月24日にベリカタを出発した。フランシスコ会の記録者であるフアン・クレスピもリベラの班に同行した。ポルトラによって率いられるもう1つの班にはフニペロ・セラ(伝道所の長)も同行し、宣教師・植民者・革の上着を着た兵士たちから成り立っていた。第2班は5月15日にベリカタを出発した。フニペロ・セラは探検中に新しく2つの伝道所を設立した(1769年7月16日にサン・ディエゴ・デ・アルカラ、1770年6月3日にミッション・サン・カルロス・ボロメオ・デ・カルメロ)。ロサンゼルス、エリシアン公園の記念銘板 ビスカイノがサンディエゴ港の緯度を間違えていたため、船はサンディエゴを通り過ぎて北へ行き過ぎてしまい、引き返す必要があった。サンアントニオ号は4月11日に到着した。最初にラパスを出たサンカルロス号は強風と嵐に遭遇し、4月29日に到着した。荷物を載せた第3の船は行方不明になった。苦しい旅のために、海路を旅した人々の大部分は病気になり(主に壊血病)、多くが死亡した。バハ・カリフォルニアを出た219人のうち、生き残ったのは100人あまりに過ぎなかった。5月にリベラは現在のサンディエゴに到着し、海路の探検隊と合流した。彼らは現在の旧市街にキャンプを設営して第2班の到着を待った。ポルトラの陸路探検隊は6月29日に到着した。 モントレー湾へと急ぐため、ポルトラ、フアン・クレスピ、63人の革の上着の兵士、そして食糧を運ぶ100頭の騾馬は、1769年7月14日に北へと向かった。1日に2-4レグア(1レグアは約4キロメートル)の速度で徒歩で進み、8月2日に現在のロサンゼルスに到着した。
青年期まで
(バハ・)カリフォルニア総督
アルタ・カリフォルニア探検