ガストン_(オルレアン公)
[Wikipedia|▼Menu]

ガストン・ドルレアン
Gaston d'Orleans
オルレアン公

在位1626年 - 1660年

出生 (1608-04-25) 1608年4月25日
フランス王国フォンテーヌブロー宮殿
死去 (1660-02-02) 1660年2月2日(51歳没)
フランス王国ブロワ
埋葬 フランス王国サン=ドニ大聖堂
配偶者マリー・ド・ブルボン=モンパンシエ
 マルグリット・ド・ロレーヌ
子女一覧参照
家名ブルボン家
父親フランス王アンリ4世
母親マリー・ド・メディシス
サイン
テンプレートを表示

ガストン・ジャン・バティスト・ド・フランス(Gaston Jean Baptiste de France, 1608年4月25日 - 1660年2月2日)は、ブルボン朝フランスの王子。オルレアン公(duc d'Orleans)。
生涯

フランス王アンリ4世と王妃マリー・ド・メディシスの三男として、フォンテーヌブローで生まれた。兄にルイ13世ムッシュ・ドルレアン(夭折)、姉にスペインフェリペ4世エリザベート(イサベル)、サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ1世クリスティーヌ(クリスティーナ)、妹にイングランドチャールズ1世アンリエット(ヘンリエッタ)がいる。

1611年にムッシュ・ドルレアンが死亡してから、1638年にルイ13世の長子として後のルイ14世が生まれるまでの間は、フランスの推定王位継承者であった。

1608年にアンジュー公に叙され、1626年にオルレアン公、ブロワ伯シャルトル伯となった。1628年、当時ユグノーの牙城であったラ・ロシェル包囲に軍を率いて参加。また、母マリーとリシュリュー枢機卿の政府に楯突き、ラングドックで王軍に完敗した後フランドルに逃亡した。やがて兄と和解して帰国するが、1635年にリシュリューに対して陰謀を企み国外へ逃げ、再度政府に服従させられた。

服従後もすぐに同じ陰謀を繰り返し、1642年に兄の寵臣サン=マール侯を操り、リシュリュー暗殺を画策したが失敗した。翌1643年に兄が亡くなると王国の陸軍大将となり、フランス北部でスペイン軍と戦った。1646年にはアランソン公になった。フロンドの乱(1648年 - 1653年)に際して、甥ルイ14世の重臣マザラン枢機卿に睨まれ、1652年に私領ブロワに蟄居させられ、そこで亡くなった。
子女オルレアン公爵夫人マルグリット

1626年8月、ナントブルボン家支流のモンパンシエ公アンリ・ド・ブルボンの相続人マリーと結婚、1女をもうけたが、マリーは翌年に死去した。

アンヌ・マリー・ルイーズ(1627年 - 1693年) - ローザン公アントワーヌ・ド・コーモンと結婚

1632年1月、ナンシーマルグリット・ド・ロレーヌロレーヌ公フランソワ2世の娘、シャルル4世の妹)と結婚、1男4女をもうけた。

マルグリット・ルイーズ(1645年 - 1721年) - トスカーナ大公コジモ3世と結婚、後に離婚

エリザベート・マルグリット(1646年 - 1696年) - ギーズ公ルイ・ジョゼフ

フランソワーズ・マドレーヌ(1648年 - 1664年) - サヴォイア公カルロ・エマヌエーレ2世

ジャン・ガストン(1650年 - 1652年)

マリー・アンヌ(1652年 - 1695年)

先代
アンリ4世の次男オルレアン公
1626年 - 1660年次代
フィリップ1世

典拠管理データベース
全般

FAST

ISNI

VIAF

国立図書館

スペイン

フランス

BnF data

ドイツ

イスラエル

ベルギー

アメリカ

チェコ

ギリシャ

オランダ

ポーランド

バチカン

人物

オランダ

ドイッチェ・ビオグラフィー

Trove(オーストラリア)

1


その他

SNAC

IdRef


記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:12 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef