ガザーリー
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ガザーリー

アブー・ハーミド・ムハンマド・ブン・ムハンマド・ガザーリー(アラビア語: ??? ???? ???? ?? ???? ?????? ??????? ???????‎、Ab? ??mid Mu?ammad ben. Mu?ammad al-??s? al-Sh?fi'? al-Ghaz?l?、1058年 - 1111年12月18日)はペルシアイスラーム神学者、神秘主義者(スーフィー)。通常名前の最後の部分を取ってガザーリーと呼ばれるが[1]、研究者の中にはガッザーリー( ???????? al-Ghazz?l?)と発音するべきだとする意見もある[1][2]ヨーロッパではアルガゼル(Algazer)のラテン名で知られ、長らく哲学者と見なされていた。

ムハンマド以後に生まれた最大のイスラーム教徒」として敬意を集め[3]スンナ派がイスラーム世界の中で多数派としての地位を確立する過程の中で最も功績のあった人物の一人に数えられる[4][5]。ガザーリーはスンナ派と対立するシーア派への反論、イスラーム哲学への批判、スーフィズム神秘主義)への接近を通して、スンナ派のイスラーム諸学を形作った。ガザーリーは存命中に高い名声を得ていたが、没後のイスラーム世界でも思想的権威と見なされ、彼の理論はファトワー(法的回答)を発する多くのウラマー(イスラーム世界の知識人)によって、コーラン(クルアーン)やハディース(預言者ムハンマドの言行録)とともに参照されている[6]。弟のアフマド・ガザーリーもスーフィズムの思想家として知られており、彼の神秘主義思想の構築には弟の影響があったと考えられている[4]
生涯

1058年にガザーリーはイランホラーサーン地方のトゥース近郊で誕生する。ガザーリーの父親は自分で紡いだ羊毛を売る商人だと言われているが、父親の職業が事実であるかは疑問視されており、また史料の中に母親について記しているものはない[7]。ガザーリーは幼少期に父親を亡くし、兄弟とともに父親の友人のスーフィーに養育された。ガザーリーには弟のアフマドのほかに数人の姉妹がいたといわれているが、それらの姉妹について明らかになっている点はない[8]。父の遺産によってガザーリーは学業に専念することができ、父の友人の勧めに従ってマドラサ(神学校)に入学した。最初トゥースで教育を受け、カスピ海沿岸のジュルジャーンに移り、アブー・ナスル・イスマーイーリーに師事した。ジュルジャーンから帰郷する途上、ガザーリーは盗賊にイスマーイーリーの教えを記したノートを奪われ、盗賊にノートを返すよう哀願した。しかし、盗賊の頭領の「ノートを奪ったためにお前の知識が失われ、何の学問も残らなかったのならば、どうしてお前はその学問を知っていると言えるのか」という言葉に、「神の言葉」を授かったかのような衝撃を受ける[9]。トゥースに帰ったガザーリーはノートに書かれた師の考えの理解と記憶に3年の時間を費やし、ユースフ・ナッサージュの元でスーフィーの修行を行った

1077年にガザーリーはニーシャープールに移り、ニザーミーヤ学院で当時の大学者イマームル・ハラマイン・ジュワイニーに師事し、シャーフィイー学派の法学とアシュアリー学派の神学を修めた[10]。ニザーミーヤ学院で才能を発揮したガザーリーはジュワイニーの代講を務め、学生の指導にあたるようになるが、過度の研究のために健康を害したこともあった。ニーシャープール時代のガザーリーはスーフィーのファールマディーからも指導を受けていたが、1084年にファールマディーが没すると一時的にスーフィズムから遠ざかる[11]1085年にジュワイニーが没した後、ガザーリーは学芸の保護者であったセルジューク朝の宰相ニザームル・ムルクの庇護を受け、エスファハーン(イスファハーン)の宮廷に出仕した[12]

やがてガザーリーの学才はニザームル・ムルクにも認められ、1091年バグダードのニザーミーヤ学院の教授に任命される[4]。300人の学生を指導する傍ら、法学・神学の講義や著述活動の合間に哲学シーア派の思想を研究し、これらの思想の批判を書き上げた[13]。ガザーリーは信仰の確信を得るために神学、哲学、シーア派を研究したが心は満たされず、さらにスーフィズムへのアプローチを行った[14]。アブー・ターリブ・マッキー(英語版)、ムハースィビー(英語版)、ジュナイド(英語版)、シブリー(英語版)、バスターミー(英語版)ら前の時代に生まれたスーフィーの著書を読んで知識を得て、修行の実践を決意する[14]1095年、世俗への執着と来世への羨望に葛藤するガザーリーはニザーミーヤ学院での講義中に「一語も発することができない」状態に陥り、食物や飲み物を口にすることができなくなる[15]。スーフィズムによって信仰の確信を得られると考えたガザーリーは内からの声に促され、葛藤の末に職を辞して地位と名誉を捨て、1095年11月に一人の修行者としてメッカ(マッカ)巡礼に旅立った[16]


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