ソビエト連邦の政治家ガザンファル・マフムード・オグルィ・ムサベコフQ?z?nf?r Mahmud o?lu Musab?yov
Газанфар Махмуд оглы Мусабеков
1987年のソ連の絵封筒より
生年月日 (1888-07-26) 1888年7月26日
出生地 ロシア帝国、バクー県クバ郡ペレビディリ
ガザンファル・マフムード・オグルィ・ムサベコフ(ムサベヨフ)(ロシア語: Газанфар Махмуд оглы Мусабеков、現代アゼルバイジャン語: Q?z?nf?r Mahmud o?lu Musab?yov、1888年7月26日 - 1938年2月9日)は、ソビエト連邦で活動したアゼルバイジャン人の政治家。ロシア語父称はマフムードヴィチ (Махмудович) とも[5]。
生涯
前半生聖ウラジーミル帝立大学時代のムサベコフ(左端・1913年)
1888年7月26日(ユリウス暦14日)[6]、ロシア帝国バクー県ペレビディリ(アゼルバイジャン語版)の裕福な(または貧しい[7])農家に生まれた[8]。クバ(アゼルバイジャン語版)の小学校から第一バクー実科学校に進み、1911年に卒業して翌1912年にキエフの聖ウラジーミル帝立大学 (ru) 医学部[1]に入学[9]。在学中もアゼルバイジャン人学生らと違法な政治団体を組織して弾圧を受けたが、1917年に大学を卒業し、医師免許も取得した[9]。
二月革命後はクバ・ソビエト執行委員会議長を半年間務め、同時に貧民に対して医療補助も施した[9]。1917年7月11日にはクバ郡 (ru) 食糧委議長に選出され[10]、12月からはバクー県食糧委副議長に就き[1]、アレクサンドル・ベグザジャン議長の下で働いた[9]。翌1918年4月にバクー・コミューンが成立すると、そのバクー県・ダゲスタン州(ロシア語版)食糧委員に任命された[10]。コミューンの崩壊後はアストラハンに移ってガミド・スルタノフ(ロシア語版)、ダダシュ・ブニアザーデらと活動[9]。ナリマン・ナリマノフとともにムスリム軍病院を設立し、その主治医を2年間務めた[11]。同年にボリシェヴィキ党員となり、8月から1920年4月までは党アストラハン委ムスリム局議長[1]、同時期にはヒュンメトのアストラハン支部長およびザカフカース・ムスリム問題執行委員でもあった[9]。
革命後ムサベコフとヨシフ・スターリン(1928年の第4期連邦中執委にて)
1920年4月にはロシア共産党政治局の決議によって赤軍のアゼルバイジャン侵攻(ロシア語版)に参加し[9]、4月28日からアゼルバイジャン社会主義ソビエト共和国の農業人民委員、貿易・産業人民委員を、1921年5月19日までアゼルバイジャン臨時軍事革命委員、1922年まで食糧人民委員を務め[1]、1921年夏にはアゼルバイジャン共産党中央委幹部会員、クバ郡非常委員に就き、教育人民委員部、外務人民委員部、高等経済会議でも勤務した[9]。