ガイセリック
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ガイセリック
Gaiseric
ヴァンダル国王
ガイセリックの肖像が彫られたコイン
在位428年477年

出生389年
バラトン湖
死去477年1月25日
カルタゴ
父親ゴディギゼル
宗教アリウス派キリスト教
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450年代の西ヨーロッパ

ガイセリック(あるいはゲンセリック、ゲイセリックとも、ラテン文字表記:Gaisericなど、389年頃 - 477年1月25日)は、ゲルマン諸部族の一派ヴァンダル族アラン族の王(428年 - 477年)である。

ガイセリックは同時代の西ゴート族の王アラリック1世フン族アッティラ大王と同様に稀代の軍略家で、北アフリカにヴァンダル王国を築き、5世紀にローマ帝国の主に西部(西ローマ帝国)を攻めて、東西ローマ帝国を大いに悩ませた。ガイセリック率いるヴァンダル王国の登場によって地中海を支配したローマの時代は終わりを告げる。そしてローマ滅亡に向かう象徴的事件としてローマ略奪がある。ガイセリックの50年近くに渡る治世中、ヴァンダル族は比較的小さなゲルマン一部族から地中海の主要勢力に隆盛したが、ガイセリック死後は衰退と崩壊への道を辿っていった。

なお、古代末期の時代は2世紀に始まった民族大移動により、ヨーロッパの勢力図は大きく変化していた。ガリア西部に西ゴート族、ヒスパニアにスエビ族が割拠していた。450年までに、アッティラ率いるフン族が東欧と中欧の諸族を従えて大帝国を築いた。フン族は、フランク族ブルグント族ゲピード族、ルギイ族(英語版)、東ゴート族などを傘下に入れ台頭し、東西ローマ帝国を苦しめた。ガイセリックの活躍はこうした情勢を背景にローマ帝国が衰退し滅亡に向かっていた時代に符合している。彼はヴァンダル族を率いて北アフリカに侵入を果たして、カルタゴで強力な海軍をつくり地中海沿岸部を襲撃し、西ローマ帝国とその経済に打撃を加えた。
概要

ヴァンダル族はローマ帝国北辺のゲルマニア辺境地帯を流転した後ライン川を渡り、ヒスパニアを目指してガリアを南下した。長い放浪を経てバエティカ(現在のスペインのアンダルシア地方にあたる地域)へと移住していく。アンダルシアという地名の由来はアラビア語でヴァンダル族の地を意味する“アル・ヴァンダル”の訛から来ている。

ガイセリックはヴァンダル族とアラン族を率いて「ヴァンダルとアランの王」を名乗り、各地を転戦しながら新王国創建の地を南へと求めていく。同時期、ローマ帝国ではアエティウスとボニファティウス(アフリカ総督)(英語版)との対立が深刻化していた。ガイセリックはローマの分裂という好機に乗じてヴァンダル族の民を率いアフリカへと渡っていく。彼は現在モロッコからアルジェリア北部に及ぶ地域マウレタニアで孤立し弱体となっていたローマ軍を撃破しながら北アフリカの沿岸部を迅速に移動した。8万人を率いてヨーロッパからアフリカに渡り、現在の地域で数々の戦いに勝利し、北アフリカの主要都市カルタゴを包囲して占領した。ガイセリックは北アフリカにヴァンダル王国を築き、西ローマ帝国の新たな脅威となった。ヴァンダル王国はカルタゴ占領時に獲得した軍船を用い、シチリア島サルディニア島コルシカ島を服従させた。442年、ローマ帝国はアフリカ属州が征服されたことを公に認め、ヴァンダル王国を承認した。

その後、約30年の間、ヴァンダル族は奪取した船団を派遣して地中海各地を略奪する海賊として活動した。ガイセリックの最も有名な業績は455年6月のローマ占領と略奪である。451年、フン族の王アッティラと同盟し、ガリアに侵攻したが、西ローマ帝国の将軍アエティウスに、カタラウヌムの戦いで敗れた。455年西ローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世が殺害され、これによって我が身に危機感を抱いたウァレンティニアヌスの妃は、ガイセリックに救援を求めた。これを大義名分としたガイセリックは442年にウァレンティニアヌスと結んでいた平和条約を破棄し、イタリアへ上陸した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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