グナエウス・マルキウス・コリオラヌス
Gnaeus Marcius Coriolanus
(Cn. Marcius Coriolanus)
ニコラ・プッサン画、『家族に説得されるコリオラヌス』(1653年頃)
出生紀元前519年頃
死没不明
出身階級パトリキ
氏族マルキウス氏族
グナエウス・マルキウス・コリオラヌス(ガイウスとも。ラテン語: Gnaeus Marcius Coriolanus、紀元前519年頃 - 没年不詳)は、パトリキ (貴族)出身の共和政ローマの将軍。プルタルコスは『対比列伝』に彼の伝を立て、それを元にシェークスピアは悲劇『コリオレイナス』を書いており、ベートーヴェンも彼を題材に序曲『コリオラン』を書き上げている[1]。 彼の個人名をティトゥス・リウィウスはグナエウスとしており[2]、一方プルタルコスやディオニュシオスはガイウスとしている[3][4]。グナエウスの省略形はCn.、ガイウスはC.で紛らわしく、どちらが正しいかは今となっては不明である。 プルタルコスに拠れば、彼は幼くして父を亡くし、女手一つで育てられた。優れた天性は持っていたが教育が行き届かず、頑固で妥協を知らない性格であったという[3]。幼い頃から剣を共にし、疲れを知らぬ努力家と言われていた[5]。 初陣は二十歳になろうかという紀元前499年頃に起こった、共和政ローマをラティウムの覇者とする事になるレギッルス湖畔の戦いであったという。彼は倒れた味方を庇って敵を打ち倒し、市民冠 紀元前494年、ローマではプレブス (平民)が高利貸に苦しんでおり、パトリキとの対立が頂点に達した。暴動寸前となり兵役のボイコットに訴えるプレブスに対して、周辺のサビニ族やウォルスキ族らの攻撃が続き、パトリキはとりあえず妥協するものの、脅威が去れば元老院での強硬派が息を吹き返すの繰り返しで、独裁官ですら仲裁することが出来ず、ついにプレブスはローマを退去し、聖山に立て籠もって全てをボイコットし、最終的には護民官の設立を勝ち取った[7]。コリオラヌスはこの妥協を苦々しく見ていた一人であったという[8]。 翌紀元前493年、その年の執政官スプリウス・カッシウス・ウェケッリヌスはラティウム同盟との条約締結のためローマに残ったが、もう一人の執政官ポストゥムス・コミニウス・アウルンクスはウォルスキ族領へ攻め込み、コリオラヌスも従軍した。 連戦連勝のローマ軍は、ウォルスキ最大の街、コリオリを包囲した。しかし敵の援軍が続々到着して後背を突かれ、街からも挟撃される事態となり、アウルンクスは軍を二分して自らは援軍に当たり、ティトゥス・ラルキウス・フラウスに残りの軍を預けて包囲を継続させた。一旦は城内から繰り出す軍勢に押し返されたものの、それを見たコリオラヌスは城門に突入して暴れまわった。プルタルコスは大カトーの言葉を引き、手業だけでなくその大音声や姿形で敵を震え上がらせたとしており、リウィウスによれば城壁に火をかけて味方を勇気づけ、コリオリを陥落させた[2][9]。
個人名
略歴
生い立ち
初陣
聖山事件
コリオリの勇者
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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