ガイウス・フラミニウス
C. Flaminius C. f. C. nepos
出生不明
死没紀元前183年以降
出身階級プレブス
氏族フラミニウス氏族
ガイウス・フラミニウス(Gaius Flaminius、- 紀元前183年以降)は、紀元前3世紀終わりから紀元前2世紀初頭の、共和政ローマの政治家・軍人。紀元前187年に執政官(コンスル)を務めた。 フラミニウスはプレブス(平民)であるフラミニウス氏族 フラミニウスが最初に記録に登場するのは紀元前210年のことであり[3]、ヒスパニアでプブリウス・コルネリウス・スキピオ(後のスキピオ・アフリカヌス)のクァエストル(財務官)を務めた[4]。しかし、次に歴史に登場するのは紀元前196年のことであり、アエディリス・クルリス(上級按察官)に就任している[5]。フラミニヌスはシキリア属州から送られてきた大量の小麦を、安価で民衆に販売したが、これはシキリアの住民が彼の父の記憶を称えて送ったものである[6]。 紀元前193年、フラミニウスはプラエトル(法務官)の地位に就き、抽選の結果ヒスパニア・キテリオルの戦争を担当することとなった[7][8]。前任者のセクストゥス・ディギトゥスは、原住民との大きな戦闘は起こさなかったが、それでも軍の半分を失ってしまった。フラミニウスは現地の情勢は困難であり、援軍が必要であるとローマに訴えた。ウァレリウス・アンティアスによれば、フラミニウウスはシキリア属州とアフリカ属州で兵士を募集し、その後ヒスパニアでも兵士を募集したという[9]。ヒスパニア到着したフラミニウスは、オレタニの町を占領し、軍を冬営させた。冬の間も数多くの小競り合いがあり、ローマ軍は軽微な損失を被った。その後、元老院はフラミニウスのヒスパニア・キテリオルでの権限を三度延長した[3]。 紀元前187年、フラミニウスはパトリキのマルクス・アエミリウス・レピドゥスとともに執政官に就任した。レピドゥスはマルクス・フルウィウス・ノビリオルの政敵であり、アエトリアのアンブラシアからの大使がノビリオルがアエトリアとの戦争を始めたとの訴えを支持した。フラミニウスはノビリオルに味方したが、元老院はアンブラシアに有利な判決を下した。両執政官はその後リグリアと戦争をしたが、フラミニウスは病気のために出征が遅れた。その年の終わりにはローマに戻り次の執政官選挙を組織し、紀元前186年初めにはヒスパニア・キテリオル後任に委ねた[3]。 執政官就任中に、フラミニスウは小フラミニア街道を建設し、ボノニア(現在のボローニャ)とアレティウム(現在のアレッツォ)を結んだ。また、紀元前183年から紀元前181年にかけて建設された植民都市アクイレイアに携わっている[3]。
出自
経歴
脚注^ Flaminius 2, 1909 , s. 2496.
^ カピトリヌスのファスティ
^ a b c d Flaminius 3, 1909, s. 2502.
^ リウィウス『ローマ建国史』、XXVI, 47, 8; 49, 10.
^ Broughton, 1951 , p. 335.
^ リウィウス『ローマ建国史』、XXXIII, 42, 8.
^ リウィウス『ローマ建国史』、XXXIV, 54, 2; 55, 6.
^ Broughton, 1951 , p. 347.
^ リウィウス『ローマ建国史』、XXXV, 2.
参考資料
古代の資料
カピトリヌスのファスティ
ティトゥス・リウィウス『ローマ建国史』
研究書
Broughton R. Magistrates of the Roman Republic. - New York, 1951. - Vol. I. - P. 600.
Munzer F. Flaminius 2 // Paulys Realencyclopadie der classischen Altertumswissenschaft . - 1909. - Bd. VI, 2. - Kol. 2496-2502.
Munzer F. Flaminius 3 // Paulys Realencyclopadie der classischen Altertumswissenschaft . - 1909. - Bd. VI, 2. - Kol. 2502.
関連項目
リウィウス氏族
共和政ローマ執政官一覧