ガイウス・テレンティウス・ウァッロ
C. Terentius C. f. M. n. Varro[1]
出生不明
死没不明
出身階級プレプス
氏族テレンティウス氏族
ガイウス・テレンティウス・ウァッロ (ラテン語: Gaius Terentius Varro) は、共和政ローマの政務官。紀元前216年の執政官を務めたが、カンナエの戦いで敗軍の将となった。 テレンティウス氏族
経歴紀元前3世紀末に氏族が鋳造したデナリウス銀貨
出自
リウィウスによれば、卑しくさもしい身分の出身で、父親は肉を売り歩く商売をしていたが、彼はその下働きをしていたと伝えられている[2]。父の残したお金で地位の向上を図り、クァエストル、アエディリス・プレビスとクルリス、プラエトルと務めた後に執政官を目指した[3]とあることから、ウァッロは遅くとも紀元前222年までにクァエストルを[4]、紀元前221年までにアエディリス・プレビスを[5]、紀元前220年までにアエディリス・クルリスを務めたと考えられている[6]。このアエディリスの時、ローマ祭の準備中ユーピテルの馬車に美しい俳優を乗せていたことが後に思い出され、ユーノーの怒りを招いたからカンナエで負けたのだと考えられたという[7]。
紀元前218年にプラエトルに選出されたとすれば、他の3人のプラエトルとの兼ね合いから、彼の担当はサルディニアであったと考えられている[8]。
敗戦第二次ポエニ戦争の図。イタリアのかかとのアキレス腱のあたりがカンナエ
第二次ポエニ戦争中の紀元前216年、ルキウス・アエミリウス・パウルスとともに執政官に選出された。同年8月2日、当日の軍の指揮官にあたり、ハンニバル率いるカルタゴ軍との決戦を望んだためカンナエの戦いが起こった。
敗北の後、敗残兵をカヌシウム(現カノーザ・ディ・プーリア)へ集結させ[9]、カンナエでの敗北で同僚のパウッルスが戦死し、自分はカヌシウムで1万の敗残兵を集めたがまとめきれていないこと、カルタゴと捕虜の身代金や戦利品の交渉を行っていたことをローマへ伝えた。この悲報にローマでは大騒ぎとなり、元老院は混乱を拡大しないため喪に服する期間を30日に制限した[10]。
オスティアで艦隊を指揮していたプラエトルのマルクス・クラウディウス・マルケッルスがカヌシウムへ派遣され、敗残兵を引き継ぐと同時にウァッロに可及的速やかにローマへ帰還するよう命令が下された[11]。