ガイウス・テレンティウス・ウァロ
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ガイウス・テレンティウス・ウァッロ
C. Terentius C. f. M. n. Varro[1]
出生不明
死没不明
出身階級プレプス
氏族テレンティウス氏族
官職クァエストル(紀元前222年)
アエディリス・プレビス(紀元前221年)
アエディリス・クルリス(紀元前220年)
プラエトル(紀元前218年)
執政官(紀元前216年)
プロコンスル(紀元前215年-213年)
プロプラエトル(紀元前208年-207年)
レガトゥス(紀元前203年、200年)
植民市建設三人委員(紀元前200年)
指揮した戦争第二次ポエニ戦争カンナエの戦い
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ガイウス・テレンティウス・ウァッロ (ラテン語: Gaius Terentius Varro) は、共和政ローマ政務官紀元前216年執政官を務めたが、カンナエの戦いで敗軍の将となった。
経歴紀元前3世紀末に氏族が鋳造したデナリウス銀貨
出自

テレンティウス氏族プレプス(平民)の出身で、氏族からは彼が最初の執政官である。次の執政官は紀元前73年マルクス・テレンティウス・ウァッロ・ルクッルスまで待たねばならない。紀元前1世紀には他に学者として有名なマルクス・テレンティウス・ウァロ、詩人のウァロ・アタキヌスなどが出ている。

リウィウスによれば、卑しくさもしい身分の出身で、父親は肉を売り歩く商売をしていたが、彼はその下働きをしていたと伝えられている[2]。父の残したお金で地位の向上を図り、クァエストルアエディリス・プレビスとクルリス、プラエトルと務めた後に執政官を目指した[3]とあることから、ウァッロは遅くとも紀元前222年までにクァエストルを[4]紀元前221年までにアエディリス・プレビスを[5]紀元前220年までにアエディリス・クルリスを務めたと考えられている[6]。このアエディリスの時、ローマ祭の準備中ユーピテルの馬車に美しい俳優を乗せていたことが後に思い出され、ユーノーの怒りを招いたからカンナエで負けたのだと考えられたという[7]

紀元前218年にプラエトルに選出されたとすれば、他の3人のプラエトルとの兼ね合いから、彼の担当はサルディニアであったと考えられている[8]
敗戦第二次ポエニ戦争の図。イタリアのかかとのアキレス腱のあたりがカンナエ

第二次ポエニ戦争中の紀元前216年ルキウス・アエミリウス・パウルスとともに執政官に選出された。同年8月2日、当日の軍の指揮官にあたり、ハンニバル率いるカルタゴ軍との決戦を望んだためカンナエの戦いが起こった。

敗北の後、敗残兵をカヌシウム(現カノーザ・ディ・プーリア)へ集結させ[9]、カンナエでの敗北で同僚のパウッルスが戦死し、自分はカヌシウムで1万の敗残兵を集めたがまとめきれていないこと、カルタゴと捕虜の身代金や戦利品の交渉を行っていたことをローマへ伝えた。この悲報にローマでは大騒ぎとなり、元老院は混乱を拡大しないため喪に服する期間を30日に制限した[10]

オスティアで艦隊を指揮していたプラエトルのマルクス・クラウディウス・マルケッルスがカヌシウムへ派遣され、敗残兵を引き継ぐと同時にウァッロに可及的速やかにローマへ帰還するよう命令が下された[11]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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