ガイウス・カッシウス・ロンギヌス
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

その他の同名の人物については「ガイウス・カッシウス・ロンギヌス (曖昧さ回避)」をご覧ください。
.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方
出典検索?: "ガイウス・カッシウス・ロンギヌス" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2018年8月)


ガイウス・カッシウス・ロンギヌス
C. Cassius Longinus[1]
ロンギヌスとレントゥルス・スピンテルを刻んだ紀元前42年頃のデナリウス銀貨
出生紀元前86年
死没紀元前42年
出身階級ノビレス
氏族カッシウス氏族
官職クァエストル紀元前53年
プロクァエストル(紀元前52年-51年)
護民官紀元前49年
プラエフェクトゥス・クラッシス(紀元前49年-48年)
レガトゥス紀元前47年-46年)
プラエトル・ペレグリヌス(紀元前44年
プロコンスル(紀元前44年?42年)
予定執政官紀元前41年
シビュラの書管理委員(?-紀元前42年
配偶者ユニア・テルティア(英語版)
テンプレートを表示

ガイウス・カッシウス・ロンギヌス(ラテン語: Gaius Cassius Longinus、紀元前87年または紀元前86年頃 - 紀元前42年)は、共和政ローマ末期の政務官マルクス・ユニウス・ブルトゥスらと共にガイウス・ユリウス・カエサル暗殺(英語版)した首謀者の1人として知られる。単にカッシウスやカシウスと表記されることも多い。エピクロス派の信奉者でもあった[2]
生涯

紀元前53年クァエストルとして第一回三頭政治の1人マルクス・リキニウス・クラッススの行なったパルティア遠征に従い、カルラエの戦いの後、敗残兵をまとめパルティア側の侵攻を防いだ[3]

紀元前52年からはプロクァエストルとしてシリア属州の防衛にあたり、ユダヤ人の反乱を鎮圧[4]紀元前51年にはパルティア軍をアンティオキア近郊で撃退した[5]

紀元前49年からのローマ内戦では、カッシウスはグナエウス・ポンペイウス元老院派に与してガイウス・ユリウス・カエサル派に対抗した。ファルサルスの戦いでポンペイウスが敗れるとカッシウスは他の元老院議員同様カエサルに許され、カエサルの支配するローマで紀元前44年に外国人係プラエトル(praetor peregrinus)に就任した。この時同僚の首都プラエトルはマルクス・ブルトゥスであった。

カッシウスはブルトゥスと共に、当時王位を望んでいたとされたカエサルの暗殺を計画する。暗殺犯達の精神面でのリーダーには、ローマの王政を廃したルキウス・ユニウス・ブルトゥスの末裔といわれ、ストア派の信奉者として廉潔な性格を知られていたブルトゥスが就き、カッシウスは計画の実務面について中心を担ったとされる(ブルトゥスの異父妹ユニア・テルティアはカッシウスの妻)。カッシウスは、カエサルの暗殺に際してその腹心の部下であり後継者となる恐れのあったマルクス・アントニウスも同時に殺害するべきと主張した。しかし暗殺の大義を重視するブルトゥスはカエサル以外のローマ市民の血が流れることを望まず、暗殺の対象はカエサルのみとする計画が立てられた。

紀元前44年にカッシウスらはカエサルの暗殺に成功した。しかしアントニウスによるカエサルの追悼演説などを受けローマの情勢は共和派の望まぬ方向へと推移していった。こうした情勢の中、カッシウスは暗殺以前から決定していた任地のシリアへ向かうためローマを離れ、シリアにいたカエサル派のプブリウス・コルネリウス・ドラベッラを破り、軍勢を整えた。その後ブルトゥスと合流したカッシウスは重税を課すなどして、カエサル派の反攻に備えた。

第二回三頭政治を成立させローマの支配権を手中にしたアントニウスとマルクス・アエミリウス・レピドゥスオクタウィアヌスは共和派への反攻を開始した。カッシウス、ブルトゥスとアントニウス、オクタウィアヌスの両軍はフィリッピ(現:ピリッポイ)で対峙した。フィリッピの戦いではカッシウスがアントニウスを、ブルトゥスがオクタウィアヌスをそれぞれ受け持った。ブルトゥスはオクタウィアヌス軍に対し優勢に戦ったが、カッシウスは逆にアントニウス軍に押し込まれた。戦いの中で自軍が全面的に敗れていると形勢を誤解したカッシウスは騎兵隊の接近を受けて自ら命を絶った。その後行なわれた2度目の戦いで共和派は完敗しブルトゥスも自殺した。

「僭主カエサル」の暗殺の首謀者であったカッシウスとブルトゥスの名声は長く残り、帝政期に入るとカッシウスは「最後のローマ人」と称されることもあった。一方でカエサルを英雄視していたダンテ・アリギエーリは『神曲』の中でカッシウスとブルトゥス、及びイエスを裏切ったイスカリオテのユダを共に地獄の最下層に配置している。
カッシウスが登場する作品
舞台

シェイクスピアジュリアス・シーザー

宝塚歌劇団・2006年月組「暁のローマ」(大空祐飛


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:20 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef