ガイウス・アシニウス・ポッリオ
G. Asinius Gn. f. Pollio
出生紀元前75年ごろ
生地テアテ
死没西暦4年
死没地トゥスクルム
出身階級プレブス
氏族アシニウス氏族
ガイウス・アシニウス・ポッリオ(Gaius Asinius Pollio、紀元前75年 - 紀元4年)[1]はプレブス(平民)出身の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前40年に執政官(コンスル)を務めた。雄弁家、詩人、劇作家、文芸評論家、歴史家でもあり、歴史に関する著作は失われているものの、アッピアノスやプルタルコスに引用されている。ポッリオは詩人ウェルギリウスのパトロンで詩人ホラティウスの友人としても知られており、両者ともにポッリオを讃えた詩を作っている[2][3]。 ポッリオはイタリア中部のテアテ(現在のキエーティ)に生まれた。現存する碑文によると、父の名前はグナエウス・アシニウス・ポッリオである[4]。彼に関する詩から、アシニウス・マルッキニウスという兄弟がいたことが分かり[5]、マルッキニ族(en
初期の経歴
ポッリオはガイウス・ウァレリウス・カトゥルスの文芸サークルに加わり、紀元前56年には前年の執政官プブリウス・コルネリウス・レントゥルス・スピンテルの支援によって公職についた。紀元前55年には前護民官ガイウス・ポルキウス・カト(en、小カトの遠い親戚)の弾劾を行うが、敗訴した。前年の護民官時代、ガイウス・ポルキウス・カトは、第一回三頭政治(ポンペイウス、クラッススおよびカエサル)の手先となっていた。 ポッリオは当初はレントゥルス・スピンテルからの支援を受けていたにもかかわらず、カエサルとポンペイウスのローマ内戦の歳にはカエサル側に立った。カエサルがルビコン川を渡って開戦するかを議論した会議には、ポッリオも出席していた[7]。ポンペイウスとそれを支持する元老院議員達がギリシアに逃れた後、カエサルは小カトと戦うためにポッリオをシキリア属州に送った[8]。その後ポッリオとガイウス・スクリボニウス・クリオはアフリカ属州に派遣され、ポンペイウス側の属州総督プブリウス・アッティウス・ウァルス(en
政治歴
紀元前47年には護民官を務めたと思われ、同僚護民官プブリウス・コルネリウス・ドラベッラ(en)が提案した徳政令(借金棒引き)に反対した。また、このときドラベッラは妻をポッリオに寝取られたとの噂も流れた[11]。翌年には、カエサルと共にアフリカに戻り、小カトとクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウス・スキピオ・ナシカを追撃した[12]。 紀元前44年にカエサルが暗殺されたとき、ポッリオはヒスパニアでセクストゥス・ポンペイウスに対する作戦を実施しており、成功を収めつつあった[13]。その後マルクス・アエミリウス・レピドゥスが属州総督に任命されると[14]、カエサル支持者としての忠誠を示し、コルドバでレピドゥスに対して元老院からの委任状がないものに対して属州を渡せないと宣言した[15]。数ヵ月後、彼の財務官(クァエストル)を務めていたルキウス・コルネリウス・バルブスが、兵士の給与を横領してカディスからマウレタニアへ逃亡した[16]。その後ポッリオはポンペイウスに手痛い敗北を喫し、偽装して戦場から脱出することとなった[17]。
ヒスパニア
オクタウィアヌスとアントニウスの内戦