ガイウス・アシニウス・ポッリオ_(紀元前40年の執政官)
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ガイウス・アシニウス・ポッリオ
G. Asinius Gn. f. Pollio

出生紀元前75年ごろ
生地テアテ
死没西暦4年
死没地トゥスクルム
出身階級プレブス
氏族アシニウス氏族
官職護民官紀元前47年
法務官紀元前45年
執政官紀元前40年
前執政官紀元前39年
指揮した戦争対パルティニ族
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ガイウス・アシニウス・ポッリオ(Gaius Asinius Pollio、紀元前75年 - 紀元4年[1]プレブス(平民)出身の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前40年執政官(コンスル)を務めた。雄弁家、詩人劇作家文芸評論家歴史家でもあり、歴史に関する著作は失われているものの、アッピアノスプルタルコスに引用されている。ポッリオは詩人ウェルギリウスのパトロンで詩人ホラティウスの友人としても知られており、両者ともにポッリオを讃えた詩を作っている[2][3]
初期の経歴

ポッリオはイタリア中部のテアテ(現在のキエーティ)に生まれた。現存する碑文によると、父の名前はグナエウス・アシニウス・ポッリオである[4]。彼に関する詩から、アシニウス・マルッキニウスという兄弟がいたことが分かり[5]、マルッキニ族(en)との関連が示唆される。おそらくは、同盟市戦争において同盟都市側で戦った将軍ヘリウス・アシニウス(en)は祖父と思われる[6]

ポッリオはガイウス・ウァレリウス・カトゥルスの文芸サークルに加わり、紀元前56年には前年の執政官プブリウス・コルネリウス・レントゥルス・スピンテルの支援によって公職についた。紀元前55年には前護民官ガイウス・ポルキウス・カト(en、小カトの遠い親戚)の弾劾を行うが、敗訴した。前年の護民官時代、ガイウス・ポルキウス・カトは、第一回三頭政治ポンペイウスクラッススおよびカエサル)の手先となっていた。
政治歴

ポッリオは当初はレントゥルス・スピンテルからの支援を受けていたにもかかわらず、カエサルとポンペイウスのローマ内戦の歳にはカエサル側に立った。カエサルがルビコン川を渡って開戦するかを議論した会議には、ポッリオも出席していた[7]。ポンペイウスとそれを支持する元老院議員達がギリシアに逃れた後、カエサルは小カトと戦うためにポッリオをシキリア属州に送った[8]。その後ポッリオとガイウス・スクリボニウス・クリオアフリカ属州に派遣され、ポンペイウス側の属州総督プブリウス・アッティウス・ウァルス(en)と戦った。クリオはウァルスが水源に毒を流したにもかかわらず、ウティカの戦い(en)に勝利する。続いてポンペイウスと同盟していたヌミディアユバ1世に向かうがバグラダス川の戦いで敗北し、クリオも戦死した。ポッリオは残存兵力をまとめてウティカへ撤退した[9]ファルサルスの戦いではカエサルのレガトゥス(副官)として参加し勝利、ポンペイウス側の使者は6,000とされている[10]

紀元前47年には護民官を務めたと思われ、同僚護民官プブリウス・コルネリウス・ドラベッラ(en)が提案した徳政令(借金棒引き)に反対した。また、このときドラベッラは妻をポッリオに寝取られたとの噂も流れた[11]。翌年には、カエサルと共にアフリカに戻り、小カトとクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウス・スキピオ・ナシカを追撃した[12]
ヒスパニア

紀元前44年にカエサルが暗殺されたとき、ポッリオはヒスパニアセクストゥス・ポンペイウスに対する作戦を実施しており、成功を収めつつあった[13]。その後マルクス・アエミリウス・レピドゥスが属州総督に任命されると[14]、カエサル支持者としての忠誠を示し、コルドバでレピドゥスに対して元老院からの委任状がないものに対して属州を渡せないと宣言した[15]。数ヵ月後、彼の財務官(クァエストル)を務めていたルキウス・コルネリウス・バルブスが、兵士の給与を横領してカディスからマウレタニアへ逃亡した[16]。その後ポッリオはポンペイウスに手痛い敗北を喫し、偽装して戦場から脱出することとなった[17]
オクタウィアヌスとアントニウスの内戦


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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