カーン郡_(カリフォルニア州)
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カリフォルニア州カーン郡

郡章

郡のカリフォルニア州内の位置
州のアメリカ合衆国内の位置
設立1866年
郡庁所在地ベーカーズフィールド
面積
 - 総面積
 - 陸
 - 水
21,165 km2 (8,172 mi2)
21,114 km2 (8,152 mi2)
52 km2 (20 mi2)
人口
 - (2020年)
 - 密度
909,235人

ウェブサイト ⇒www.co.kern.ca.us

カーン郡(: Kern County)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州セントラルバレー南部に位置する郡である。1866年に設立された。郡庁所在地は1874年以来ベーカーズフィールド市である(当初の郡庁所在地はベーカーズフィールドとテハチャピとの間の山岳部にある元鉱山町ハビラだった)。シエラネバダ山脈の東部南斜面から東にモハーヴェ砂漠に拡がり、インディアンウェルズ・バレーやアンテロープ・バレーの部分も含み、広さはニュージャージー州の大きさに相当している。シエラネバダ山脈からはサンホアキン・バレーの平面部を横切り、海岸山脈の一部であるテンブラー山脈の東端まで拡がっている。郡の南部はテハチャピ山地の丘陵部にまで伸びている。人口は90万9235人(2020年)[1]

郡の経済基盤はまず農業があり、また石油天然ガス水力発電風力発電および地熱発電ではかなりの生産量がある。2009年時点で州内で生産している油井52,144施設のうち、81%がカーン郡内にあり、州内では最も石油生産量が多い[2]。アメリカ合衆国国内で見ても石油生産量の10分の1を生産しており、国内最大級の油田5か所のうちの3か所が郡内にある。鉱物資源も豊富であり、ホウ酸塩およびケルナイトが産出される。ホウ砂を掘削する州内最大の露天掘り鉱山が郡内のボロンにある[3]。風力発電では2014年1月現在でアルタウインドエナジーセンターは世界最大の風力発電施設となっている。

防衛関係の施設としてはエドワーズ空軍基地とチャイナ湖海軍航空武器基地がある。郡政府が運営するモハーヴェ・スペースポートも郡内にある。
歴史
初期

カーン郡は1769年にスペインが領有を主張した。1772年、司令官ドン・ペドロ・ファヘスがこの地域に入った最初のヨーロッパ人となった。その遠征隊はグレープバインキャニオンを抜けてこの地域に入った(後にアメリカ国道99号線と州間高速道路5号線となった山岳路)。1834年にウォーカー峠が発見され、冬でも雪に閉ざされない数少ない経路なのでシエラネバダ山脈越えの重要な道となっている。

カーン郡は1866年に創設され、この時の郡庁は現在放棄されている鉱山町ハビラに置かれた。当初は山岳の鉱山と砂漠があるだけだった。サンホアキン・バレーは湿地、湖、湿地性の葦原、およびマラリアのような病気のために住むことができず通過もできないと考えられていた。開拓者達はこの土地を農業用に排水し、灌漑のためにほとんどが中国人労働者の手掘りで運河を建設し始めたときに、この状況が変わった。それから10年も経たないうちにサンホアキン・バレーの重要性が経済面で鉱業地帯を上回り、1874年に郡庁所在地もハビラからベーカーズフィールドに移された。

鉱山師を襲った後のインディアン(大半はモハーヴェ族とパイユート族)と山岳部に侵入してくる開拓者の間の緊張関係は、幾つかの衝突によって著しく高まった。

他の部族との関係は比較的協調的だった。ハイドゥー族はエドワード・ビール将軍の保護下にテホン牧場に住み、ビールと酋長達との関係は良好だった。サンホアキン・バレーのヨクート族は平和を愛し友好的だった。

1824年3月、サンタバーバラ伝道所のチュマシュ族が、伝道所の資産を継承しインディアンを追い出したメキシコ政府に対して反乱を起こし、サンエミグディオの戦いが起こった。モントレーから来たカルロス・カリリョの指揮するメキシコ軍との間に、ベーカーズフィールドの南、サンエミグディオ山とブルーリッジから流れ出るサンエミグディオ・クリークのある峡谷でこの戦闘が起こった。この戦闘による損失はインディアン側で4名の戦死者を出しただけであり、残ったインディアンは追跡を受けたが、交渉によって多くの者が武器を携行したまま山越えで戻ることを認められ、休戦に応じて1824年6月にサンタバーバラに戻った[4]

元アメリカ合衆国大使でアメリカ陸軍の将軍だったエドワード・フィッツジェラルド・ビールがベーカーズフィールド南の山岳部に広大なテホン牧場を設立し所有した。これはメキシコによる特許土地である4つのランチョを統合したものであり、腐敗し無能なメキシコ政府役人に対してカリフォルニアが独立戦争を起こしたときにビールも参加して勝利した後の1846年にこれらの土地を購入した。今日、テホン牧場はカリフォルニア州では最大の私有土地となっている。ビール記念図書館、ビール・アベニュー、ジェネラルビール道路、ビール記念時計塔、ビール公園およびトラクスタン・アベニューは、ビールとその妻および息子のトラクスタンを含む影響力有るビール家に因んで名付けられたものである。

テホン牧場のインディアンは大半がハイドゥー族だったが、土地の住民や、今では居なくなったが牧童達と同化した。レベックの町の直ぐ北、リッジルート(現在は州間高速道路5号線)に隣接して建てられた砦は現在、カリフォルニア州立歴史公園となり、生きている歴史の展示や南北戦争の再現が行われている(ただし、この地で南北戦争の戦闘は無かった)。

カーン郡は1866年にロサンゼルス郡トゥーレアリ郡の部分を併せて設立された[5]。その名前は、1845年にウォーカー峠を越えて入ってきたジョン・C・フレモント将軍の遠征隊で地図作成を担当したエドワード・カーンに因むカーン川の名前を採った。カーン川は当初、フランシスコ・グレイシーズ神父が1776年にこの地域を探検した時にリオブラボー・デ・サンフェリペと名付けられていた。郡設立のときは、ベーカーズフィールドとタフトの間にあった大きな湖で、現在は無くなっているブエナビスタ湖に因みブエナビスタ郡と名付けられるところだった。カーン郡の西半分はセントラルバレーの南端にあたり、1866年の人口に関する報告書では全郡で1万人に満たない不毛で半分は砂漠の土地と見なされていた。
20世紀レイクビュー石油噴出「en:Midway-Sunset Oil Field」も参照

1894年にアメリカ合衆国でも第3位となるミッドウェイ・サンセット油田が発見され、19世紀末に石油開発が始まった。この油田の郡内マリコパに近い南西部で1910年にレイクビュー石油噴出が起こり、アメリカ合衆国の歴史でも最大の石油噴出となった。この油井は最終的に閉栓できるまでの1年半で約900マンバーレル (1,000,000 m3) の原油を噴出させ、周りの景観を一変させた。20世紀初期に発見された郡南西部にあるその他の大規模油田としては、ブエナビスタ油田、サウスベルリッジ油田およびキムリック油田がある。キムリック油田は年間生産量ではカリフォルニア州で最も成長速度の高い油田となっている.[6]。カーン郡の他の地域にある油田では、合衆国第5位のカーン川油田、これに隣接するカーンフロント油田、シエラネバダ山脈の麓でベーカーズフィールドの北北東にあるマウントポソ油田、カーン川の北でベーカーズフィールド市の真下にあるフルートベール油田がある[7][8]

カーン郡内に別の大規模なエルクヒルズ油田は、ウォレン・ハーディング大統領の不名誉な汚職事件となったティーポット・ドーム事件に関係することになった。1923年、ハーディング大統領の内務長官アルバート・B・フォールが海軍の備蓄油田の一部の採掘権を公開入札も無しに私企業に渡し、エルクヒルズ油田の場合は個人的な借金と引き換えにしたことが暴露された。この違法取引にはエルクヒルズ油田やワイオミング州のティーポット・ドームの石油が当てられた。1927年の最高裁判所裁定で、エルクヒルズは公的所有に戻し、アメリカ海軍第1石油備蓄所となった。この状態は1997年に内務省がそこをオクシデンタル石油に売却するまで続いた。


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