この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2015年4月)
カール1世ルートヴィヒ カール1世ルートヴィヒ カール1世ルートヴィヒ カール1世ルートヴィヒ
カール1世ルートヴィヒ(Karl I. Ludwig, 1617年12月22日 - 1680年8月28日)は、プファルツ選帝侯(在位:1648年 - 1680年)。フリードリヒ5世(ボヘミア冬王)とイングランド王ジェームズ1世の娘エリザベスの次男。弟にカンバーランド公ルパート(ループレヒト)、プファルツ=ジンメルン伯エドゥアルト、妹にイギリス王兼ハノーファー選帝侯ジョージ1世の母ゾフィーがいる。イングランド王チャールズ2世・ジェームズ2世兄弟は母方の従弟に当たる。
兄フリードリヒ・ハインリヒが1629年に若くして水死し、1632年に父が死去したため家督を継いだ。三十年戦争とイングランド内戦に従軍したが、選帝侯位奪還を図ろうとしてフランスに捕らえられたこともある。
1648年のヴェストファーレン条約によって選帝侯位を回復した(バイエルン公マクシミリアン1世がカールの父から奪った選帝侯位はそのままとされ、カールには新たな選帝侯を与えられた)。復帰後はハイデルベルク城に入って荒廃した領土の復興に取り組み、農業の振興、マンハイムの再建と1652年に法学者プーフェンドルフを招聘してハイデルベルク大学の教授に引き立て、学問の振興も図った。
1671年に娘のエリーザベト・シャルロッテをフランス王ルイ14世の弟オルレアン公フィリップに嫁がせ、オランダ侵略戦争では中立の立場を取ったが、1674年にフランス軍がプファルツ選帝侯領に駐屯・略奪したことに反発、神聖ローマ帝国諸侯軍に味方した。また、妃シャルロッテと離婚してマリー・ルイーゼ・フォン・デーゲンフェルト
と貴賤結婚したことは物議を醸した。1680年、62歳で死去した。息子のカール2世が選帝侯位を継いだが、1685年に嗣子なくして死去、プファルツ=ジンメルン家が断絶すると遠縁のプファルツ=ノイブルク公フィリップ・ヴィルヘルムが継承、ルイ14世は義妹の権利を主張してプファルツ継承戦争を起こすことになった。 1650年にヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム5世の娘シャルロッテ(1627年 - 1686年)と結婚したが、1657年に離婚した。 1658年にデーゲンフェルト男爵令嬢マリー・ルイーゼ
子女
カール2世(1651年 - 1685年) - プファルツ選帝侯
エリーザベト・シャルロッテ(1652年 - 1722年) - オルレアン公フィリップと結婚。
フリードリヒ(1653年)
カール・ルートヴィヒ(1658年 - 1688年)
カロリーネ・エリーザベト(1659年 - 1696年) - ションバーグ公メイナード・ションバーグと結婚。
ルイーゼ(1661年 - 1733年)
ルートヴィヒ(1662年)
アマーリア・エリーザベト(1663年 - 1709年)
ゲオルク・ルートヴィヒ(1664年 - 1665年)
フリーデリケ(1665年 - 1674年)
フリードリヒ・ヴィルヘルム(1666年 - 1667年)
カール・エドゥアルト(1668年 - 1690年)
ゾフィー(1669年)
カール・モーリッツ(1671年 - 1702年)
カール・アウグスト(1672年 - 1691年)
カール・カシミール(1675年 - 1691年)
娘(1677年)
参考文献
『ドイツ史 2 1648年-1890年』 成瀬治・山田欣吾・木村靖二編、山川出版社〈世界歴史大系〉、1996年7月。ISBN 978-4-634-46130-7。
ウェッジウッド, シセリー・ヴェロニカ 『ドイツ三十年戦争』 瀬原義生訳、刀水書房、1998年5月。ISBN 978-4-88708-317-2。
友清理士 『イギリス革命史 上 オランダ戦争とオレンジ公ウイリアム』 研究社、2004年7月。ISBN 978-4-327-48145-2。
友清理士 『イギリス革命史 下 大同盟戦争と名誉革命』 研究社、2004年7月。ISBN 978-4-327-48146-9。
ウィキメディア・コモンズには、カール1世ルートヴィヒ (プファルツ選帝侯)に関連するメディアがあります。
先代:
フリードリヒ5世
マクシミリアン1世プファルツ選帝侯
1632年(1648年) - 1680年次代:
カール2世
この項目は、歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:歴史/P:歴史学/PJ歴史)。
更新日時:2017年10月13日(金)00:54
取得日時:2019/02/02 17:11