カール・ローザ・オペラ・カンパニー
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カール・ローザ・オペラ・カンパニー(Carl Rosa Opera Company)は、ドイツ出身の音楽興行主のカール・ローザと、その妻でイギリスソプラノ歌手であったユーフロジーヌ・パレパ=ローザが、ロンドン及びイギリス各地に英語のオペラを届けるべく1873年に設立した劇団。一座は地位の確立したオペラスターと若手歌手を織り交ぜて起用し、求めやすい価格でチケットを販売して新たなオペラ観客に訴求しつつ、イギリス国内で多数のオペラの新作を初演した。1889年のローザの死後も存続した一座はツアーを行って英語のオペラを公演し続けたが、1960年に資金難により閉鎖を余儀なくされた。1997年に再興された同劇団は、ギルバート・アンド・サリヴァンによるものをはじめとした軽妙なオペラを主として上演している[1]
背景ユーフロジーヌ・パレパ=ローザ

カール・ローザはカール・アウグスト・ニコラウス・ローゼとして、ドイツのハンブルクで地元の実業家の息子として生まれた。ヴァイオリンの神童であったローゼはライプツィヒパリの音楽院で学んだ。1863年にハンブルクでコンサートマスターに任用され、時おり指揮をする機会を得ることができた[2]。彼はまもなくイングランドアメリカ合衆国で指揮者として大きな成功を収めることになる。1866年から1867年にかけて楽団の指揮者としてアメリカツアーをしている最中、帯同していたスコットランドのソプラノのユーフロジーヌ・パレパと結婚した。

1869年から1872年にかけて、ローザと妻は自らの一座でアメリカ中をまわった。そこではパレパはスターでローザは指揮者を務めた。一座はオペラ公演が行われたことのない土地を巡るのに加え、イタリアオペラを英語で上演することにより作品をアメリカの聴衆にも馴染みやすいものとしていった[3]
草創期

1872年、ローザはイングランドへと帰国し、さらにヨーロッパとエジプトも訪れた[3]。翌年、9月1日にマンチェスターでウィリアム・ヴィンセント・ウォレスの『マリターナ』を上演して「カール・ローザ・オペラ」を旗揚げし[4]、イングランドとアイルランドへの巡業に出た。ローザはオペラを英語で公演することをポリシーに掲げており、これは一座の決まりであり続けた[5]。パレパが病に倒れて1874年1月にこの世を去ると[4]、ローザは1881年にジョゼフィーヌ(1927年没)と再婚して4人の子を儲けた[2]。1874年11月に一座は初めてとなるスコットランド訪問を行った。グラスゴーのプリンス・オブ・ウェールズ劇場で2週間のシーズンに臨んだ一座は、この後も何度も同地を訪れることになる[6]。一座のはじめてとなるロンドンでのシーズンは1875年9月にプリンセス・シアターで幕を開けた。演目はモーツァルトの『フィガロの結婚』で、チャールズ・スタンリーがフィガロを、ローズ・ハーシーがスザンナを演じた。1876年に2度目のロンドンでのシーズンに臨んだローザは、スタンリーをタイトル・ロールに据え、初めての英語での公演となるワーグナーの『さまよえるオランダ人』を呼び物とした[4]1887年の『Entr'acte』誌に掲載されたローザの風刺画。

続く15年の間は地方巡業とロンドンでのシーズンをこなし、シアター・ロイヤルでは頻繁にオーガスタス・ハリスと組み、一座は繁栄するとともに好評を博していった[2]。成功の度合いは凄まじく、ある時にはカール・ローザの巡業部隊が3組編成されるほどであった[4]。1892年10月にはローザのグランド・オペラ・カンパニーが王室の称賛に与り、勅命を受けてバルモラル城にてドニゼッティの『連隊の娘』を上演した。フランス系アメリカ人のゼリー・ド・リュサンがヒロインのマリーを歌い、エインズリー・クックは「軍曹シュルピスとしてヴィクトリア女王を大いに楽しませた」という[4]。権威ある音楽関係の参考図書である『ニューグローヴ世界音楽大事典』の編者であるジョージ・グローヴは、1880年に次のように書いている。「作品を舞台に乗せる慎重な方法、リハーサルの回数、演者の名声の高さ、そして演者の卓越性はその正当な成果を生み始めている。そして、カール・ローザ・オペラ・カンパニーは恒久的なイングランドの組織となっていくことであろう[3]。」

一座は多数の重要なオペラの演目をイングランドに初めて持ち込んでおり、年数をかけて150作品ほどの様々なオペラを上演していった。スタンリーとハーシーの他にも、ブランシュ・コール、ミニー・ホーク、アリス・エスティ、ファニー・ムーディ、アリス・バース、ジョージナ・バーンズ、ジョセフ・マース、バートン・マクガキン、ジュリア・ウォリック、ウィリアム・ルドウィッグなどの有名歌手が、結成初期の一座と共演した[7]。成功を収めた演目にはケルビーニの『二日間、または水の運搬人』(1875年)、スタンリーをタイトル・ロールに起用した『さまよえるオランダ人』(1876年)、セリーナ・ドラーロがタイトル・ロール、ダーウォード・レリーがドン・ホセを演じた『カルメン』(1879年)[8]、『リエンツィ』(1879年)、『ローエングリン』(1880年)、『タンホイザー』(1882年)[2]、そしてイギリス初演となったプッチーニの『ラ・ボエーム』(1897年)がある[9]。1879年から1885年にかけてはアルベルト・ランデッガーが一座の音楽監督を務め[10]、1897年から1900年にかけてはグスターヴ・スラッポフスキが首席指揮者を任された[11][12]一座のプリマ・ドンナだったニータ・カリット、1895年。


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