カール・ルートヴィヒ・ハプスブルク=ロートリンゲン
[Wikipedia|▼Menu]

カール・ルートヴィヒ
Carl Ludwig
ハプスブルク=ロートリンゲン家

続柄カール1世第4皇子

全名一覧参照

Karl Ludwig Maria Franz Joseph Michael Gabriel Antonius Robert Stephan Pius Gregor Ignatius Markus d'Aviano
カール・ルートヴィヒ・マリア・フランツ・ヨーゼフ・ミヒャエル・ガブリエル・アントニウス・ロベルト・シュテファン・ピウス・グレゴール・イグナティウス・マルクス・ダヴィアノ

身位大公→帝政廃止
敬称殿下→帝政廃止
出生 (1918-03-10) 1918年3月10日
オーストリア=ハンガリー帝国バーデン・バイ・ウィーン
死去 (2007-12-11) 2007年12月11日(89歳没)
ベルギーブリュッセル
埋葬2008年1月12日
 オーストリアウィーンカプツィーナー納骨堂
配偶者ヨランド・ド・リーニュ
子女一覧参照

ルドルフ
アレクサンドラ
カール・クリスティアン
マリア・コンスタンツァ

父親カール1世
母親ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ
宗教キリスト教カトリック教会
テンプレートを表示

カール・ルートヴィヒ・ハプスブルク=ロートリンゲン(ドイツ語: Carl Ludwig Habsburg-Lothringen, 1918年3月10日 - 2007年12月11日)は、ベルギーカナダの実業家。オーストリア=ハンガリー帝国の旧統治者家門ハプスブルク=ロートリンゲン家の一員。最後のオーストリア皇帝福者カール1世の四男。
生涯

皇帝カール1世とその妻でパルマ公ロベルト1世の娘であるツィタ皇后の間の第5子、四男として帝政崩壊の半年前に生まれ、誕生時には101発の祝砲が鳴らされた。

両親の亡命先のマデイラ島で幼少期を過ごし、1930年代には長兄で家長のオットーの援助でベルギールーヴェン・カトリック大学で学んでいる。1940年にナチス・ドイツ軍の侵攻に伴い、家族とともに北米へ避難し、母や未成年の弟妹たちと一緒にカナダのケベックに落ち着いた[注釈 1][1]。この間、彼はラヴァル大学で学びました[2]

1943年にアメリカ軍に入隊し、フランクリン・ルーズヴェルト大統領の命令で、中立国ポルトガルにおいてハンガリーと秘密裏に和平交渉を行ったが、失敗に終わった。1944年にはノルマンディー上陸作戦にも参加し、1947年には陸軍少佐に昇進した。その後、ベルギー企業のアメリカ支社に入社し、ニューヨークワシントンで働いた[3]

1950年1月17日にベルギーのエノー州ブロイユ(英語版)で、リーニュ公ウジェーヌ2世(英語版)の娘ヨランド(英語版)(1923年 - )と結婚し、間に4人の子供をもうけた。1958年に妻子とともにヨーロッパに戻り、ブリュッセルでソシエテ・ジェネラル・ド・ベルジック(英語版)社に勤務した。のちに同社のカナダにおける子会社ジェンスター(Genstar)社を創設し、1986年に退職するまでジェンスター社の取締役を務めた。カール・ルートヴィヒはジェンスターに様々な部門を創設して会社規模を大きくし、退職するまでに同社の社員を2000人以上に増やした[3][4]

カール・ルートヴィヒはすぐ上の兄フェリックスとともに、1919年に制定されたハプスブルク法によってオーストリア共和国政府に没収されたハプスブルク家の資産の一部を返還するよう求めていた。この資産の一部とは、1935年から1936年にかけ、ハプスブルク家と共和国政府が一時的に和解した際にハプスブルク家側に弁済されたものであるが、1938年のアンシュルスに際してナチ党政府に没収され、それ以来ハプスブルク側に返還されていない[3]

長兄オットーと違い、カール・ルートヴィヒはオーストリア市民権の取得と引き換えに共和国政府の求める帝位請求権放棄とハプスブルク家の成員たる身分の放棄の宣言をしようとはしなかったため、オーストリア政府に入国を禁じられていた[5]。しかし1996年3月26日に、オーストリア政府の譲歩により、帝位請求権放棄に言及しない形で共和国政府に忠誠を誓うことを兄フェリックスと一緒に宣言し[6]、同年4月16日にオーストリア議会も彼ら兄弟に対するパスポートと入国許可証の付与を承認した[7]

2007年12月11日に死去し、翌2008年1月12日に皇帝一族の眠るウィーンカプツィーナー納骨堂の、母ツィタ皇后の棺の傍に埋葬された。@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .mod-gallery{width:100%!important}}.mw-parser-output .mod-gallery{display:table}.mw-parser-output .mod-gallery-default{background:transparent;margin-top:.3em}.mw-parser-output .mod-gallery-center{margin-left:auto;margin-right:auto}.mw-parser-output .mod-gallery-left{float:left;margin-right:1em}.mw-parser-output .mod-gallery-right{float:right}.mw-parser-output .mod-gallery-none{float:none}.mw-parser-output .mod-gallery-collapsible{width:100%}.mw-parser-output .mod-gallery .title,.mw-parser-output .mod-gallery .main,.mw-parser-output .mod-gallery .footer{display:table-row}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div{display:table-cell;text-align:center;font-weight:bold}.mw-parser-output .mod-gallery .main>div{display:table-cell}.mw-parser-output .mod-gallery .gallery{line-height:1.35em}.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div{display:table-cell;text-align:right;font-size:80%;line-height:1em}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div *,.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div *{overflow:visible}.mw-parser-output .mod-gallery .gallerybox img{background:none!important}.mw-parser-output .mod-gallery .bordered-images .thumb img{outline:solid #eaecf0 1px;border:none}.mw-parser-output .mod-gallery .whitebg .thumb{background:#fff!important}

カール・ルートヴィヒの葬儀に動員されたオーストリア警察

カール・ルートヴィヒの棺


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:22 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef