カール・ラガーフェルド
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カール・ラガーフェルド
Karl Lagerfeld
ブランド「フェンディ」ストアのオープンセレモニーにて(2014年5月)
生誕Karl Otto Lagerfeldt
1933年9月10日
ドイツ国ハンブルク
死没 (2019-02-19) 2019年2月19日(85歳没)
住居 フランスパリ近郊ヌイイ=シュル=セーヌ
国籍 ドイツ
教育St. Annes School
職業デザイナー
Karl Lagerfeld
(1984-2019)[1]
シャネル
(1983-2019)[2]
フェンディ
(1965-2019),[3]
クロエ
(1963-1978, 1992-1997),[4]
ジャン・パトゥ
(1958-1963),[1]
H&M
(2004)
Hogan
(2011),
Macy's
(2011)
写真家
親オットー・ラガーフェルト, エリーザベト・バーマン
公式サイトカール・ラガーフェルド
署名

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カール・オットー・ラガーフェルド[5](Karl Lagerfeld、1933年9月10日 - 2019年2月19日)は、ドイツ出身のファッションデザイナー写真家フランスパリ近郊ヌイイ=シュル=セーヌ在住。もとの姓はラガーフェルト(Lagerfeldt)である[6]

世界的なブランド「シャネル」「フェンディ」や、シグネチャーブランドのヘッドデザイナーあるいはクリエイティブ・ディレクターを務め、様々なファッション・アートのプロジェクトで業績を残したファッション界の重鎮。ポニーテールの白い髪・暗い色のサングラス・高い襟のシャツという容姿がトレードマーク[7]
略歴
生い立ち

1933年の9月10日、ドイツ北部のハンブルクに生まれた[5]。父はオットー・ラガーフェルト(ドイツ語版)(1881-1967)、母はエリーザベト・バーマン(1897-1978)。彼の父オットーは無糖練乳を生産・輸入する企業のホーホヴァルト社(ドイツ語版)を経営していた。また母のエリーザベトはオットーと出会ったころ下着のセールスの仕事をしていてベルリンに住んでいた。母方の祖父であるカール・バーマンは中央党の地元政治家であった[5]。オットーとエリーザベトは1930年に結婚した[8]。一家は復古カトリック教会を信仰する家庭だった。
キャリア

パリオートクチュール組合が経営する学校にてファッションを学ぶ。この時の同級生にアルジェリアから来たイヴ・サン=ローラン、それに日本から来た小池千枝がいた。1955年、国際羊毛事務局(International Wool Secretariat)(現在のザ・ウールマーク・カンパニー)の支援するデザインコンテストのコート部門で優勝したカールはピエール・バルマンのアシスタントとして雇われた。3年間バルマンの下で働きデザイン室長になったが、1958年、ジャン・パトゥの下に移籍して5年間にわたり年2回60点ほど発表されるオートクチュールのデザインを行った。生地や技術的なことも主にパトゥのメゾンで学んだと語っている[9]

彼の最初のコレクションは1958年の7月に2時間の時間を使って披露された。なお、この時はローランド・カール(Roland Karl)の名前を使っている(後年の1962年ごろの記事ではカールの名前はKarl LagerfeltとかKarl Logerfeldとよく誤植されていた)。この最初のコレクションの反応は決して良いものではなかった。アメリカのファッションジャーナリストであるキャリー・ドノバンの記事によれば「看板(press booed)を集めたようなコレクション」[10]また、UPI通信社の記事によれば「会社の新しいデザイナー 25歳のローランド・カールのコレクションは引き延ばされた形で昨年の袋形のフォルムの流れを無視したものである」とのことであった。なおカールは、このシーズンのシルエットをアルファベットの「K」になぞらえたものと言っている。正面のまっすぐなライン、ウエストの後方でとった曲線、長いスカートの組み合わせがその示すところである。

彼が1960年の春のシーズンにデザインしたスカートはその年のパリで一番短いものだった。しかし、コレクションの反応はそれほどよいものではなく、キャリー・ドノバンは「既製服(ready-to-wear)としては十分良く売れるだろうが、しかしオートクチュールではない」と切り捨てた。それでも1960年代も後半の頃になると、徐々にカールの発表するコレクションの評価も悪くないものになってきていたが、いまひとつという状況が続いた。この頃を「ウンザリして、仕事を辞めて、学校に戻ろうと思ったが上手くいかなかった。だからそれから2年間を主にビーチで過ごした。(why )そこで人生というものを学んだと思う」とカールは評している。

1963年、カールはティツィアーニ(Tiziani)というブランドを立ち上げた年にアメリカテキサス州出身のアメリカ人エヴァン・リチャ―ズによって、イタリアローマで創業された店のためのデザインの仕事を始めた。そこではまずオートクチュールを、続いて既製服にも製造が拡大された。1963年、カールとエヴァンは共同でデザインを行い最初のコレクションを仕上げた。このブランドの顧客にはエリザベス・テイラージーナ・ロロブリジーダ,ドリス・デュークといった著名人が名を連ねた。結局カールはこのブランドのデザインを1969年まで行った(なお後任はGuy Douvierという人物)。

この頃までに所属したメゾンには他にクリツィア、シャルル・ジョルダン、ヴァレンティノなどもあるという[11]

1964年には、フリーランスのデザイナーとしてクロエと契約。最初のうちはシーズンごとに数点のデザインをするだけであったが、徐々に多くを担うようになり、それからコレクション全部をデザインするまでになった。このクロエとの協業は1978年まで続き、1992年には再びデザイナーに復帰している(二度目は1997年まで)。1965年には毛皮で有名なイタリアのブランド フェンディと契約し、デザインの仕事を開始。それまでの伝統的な形の毛皮のコートを一新し、ミリタリーなど新鮮なスタイルを提案しブランドの刷新を図る。また、今日まで使われるフェンディのFを2つ組み合わせたロゴもデザインした(その意味はFun Furであるらしい)[9]

フェンディとの契約によるデザイン職は50年以上も続いた。

こうしたフリーランスとしてデザイン職に携わるやり方は、彼が最初ではないが、成功例として以降一般化していく[9]

1970年には、その前年の11月に創業者(Gigliola Curiel)を亡くしたローマのオートクチュール店Curielのためにデザインを始める。最初のコレクションは1930年代の銀幕スターのためにデザインされたような「ポタポタと落ち感のあるエレガンス」と評された[12]

1970年代には、舞台衣装のデザインを行っていた時期もある。その中にはミラノのスカラ座のための仕事なども含まれる。

1980年代には様々な会社と契約を結んでデザインを行っている。例えば、伊勢丹と契約してデザインをし、メンズ、ウィメンズで30点ほどの製品を発表した。他にもアメリカの会社(Eve Stillmann)との契約によるランジェリーのデザインや、靴、セーターのデザインを行っている。

1982年シャネルと契約[7]。低迷ぎみであったブランドを復活させた(詳細は後述)。

2004年、スウェーデンのファストファッションメーカーH&Mとのコラボを発表。高級ブランドのデザイナーとファストファッションのコラボレーションはそれ以前にはほとんど例がなかったが、これ以降、H&Mは毎年著名なデザイナー、メゾンとのコラボレーションを行っている。

2019年2月19日午前、パリ近郊のヌイイ=シュル=セーヌにて、姉に見守られながら死去した[13]。享年85[14]


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