この項目では、経済学者のカール・メンガーについて説明しています。数学者については「カール・メンガー (数学者)」をご覧ください。
カール・メンガーオーストリア学派
カール・メンガー
生誕 (1840-02-23) 1840年2月23日
死没 (1921-02-26) 1921年2月26日(81歳没)
研究分野近代経済学
博士課程
指導教員ローレンツ・フォン・シュタイン[1]
博士課程
指導学生オイゲン・フォン・ベーム=バヴェルク[1]
フリードリヒ・フォン・ヴィーザー[1]
影響を
与えた人物オーストリア学派の経済学者
実績限界効用による経済人の行動分析
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カール・メンガー(Carl Menger, 1840年2月23日 - 1921年2月26日)は、オーストリアの経済学者。経済学におけるオーストリア学派(限界効用学派
)の祖。ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズ、レオン・ワルラスらと共に限界効用理論の創始者として、近代経済学の創始者の一人に挙げられる。カール・メンガーは、オーストリア領ガリチア、ノイザンデツ(現ポーランド、ノヴィ・ソンチ)の下級貴族の裕福な家庭に、弁護士の息子として生を享けた。兄マックス・メンガーは政治家、弟アントン・メンガーは民法学者となっている。
ギムナジウムを卒業後、プラハ大学とウィーン大学で法律を学び、後にクラクフ大学から博士号を受けた。1860年代に大学を離れ、レンベルク新聞社(Lemberger Zeitung)、そしてウィーン新聞社(Wiener Zeitung)で、経済ニュースを取材する記者として働いた。記者として経済を取材する過程で、メンガーは、古典派経済学の価格決定についての理論と実際の市場での値動きとの不一致に気づいた。1867年から経済学の研究を始め、1871年の『国民経済学原理』 (Grundsatze der Volkswirtschaftslehre)の出版により新しい経済学を打ち立てた。これにより、かれは経済学のオーストリア学派の祖となった。『経済学原理』は出版当時、ほとんど無視されたが、その後、新古典主義革命に貢献したとの名声を得た。
1872年、メンガーはウィーン大学法学部に私講師として招かれ、その後数年にわたって財政学と経済学のゼミナールおよび講義をおこなった。出席する学生数は年々増加し、1873年には33歳で経済理論の員外教授に迎えられた。
1876年以降、メンガーはオーストリア皇太子であるハプスブルク家のルドルフ大公の経済学と統計学の家庭教師を務めた。皇太子がヨーロッパ大陸やイギリス諸島へ旅行した際、2年に亘って随行した。また、皇太子が1878年に匿名で出版した、オーストリアの上流貴族社会を痛烈に非難した攻撃文書の執筆を手伝ったと見られている。かれと皇太子との関係は、1889年に皇太子が自殺するまで続いた。
1878年、ルドルフの父であるオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、かれをウィーン大学の経済学正教授に任命した。