カール・ミヒャエル・ツィーラー
Carl Michael Ziehrer
基本情報
生誕1843年5月2日
出身地 オーストリア帝国、ウィーン
死没 (1922-11-14) 1922年11月14日(79歳没)
オーストリア、ウィーン
ジャンルオペレッタ(ウィンナ・オペレッタ
カール・ミヒャエル・ツィーラー(ドイツ語: Carl Michael Ziehrer, 1843年5月2日 - 1922年11月14日)は、オーストリアの作曲家・指揮者。
ウィンナ・オペレッタ(ドイツ語版)の黄金時代「金の時代」を築いた作曲家のひとりで、その後の「銀の時代」でも活躍した[1]。ウィンナ・ワルツの代表的な作曲家のひとりでもあり、ウィーンフィル・ニューイヤーコンサートにもしばしば彼の作品が登場している。代表作にワルツ『ウィーン市民』など。
生涯ヴァイオリンの弓で指揮するツィーラーの姿を描いた絵プラーター公園のツィーラー像
カール・エマヌエル・ハーゼルに師事し、1863年に作曲家・指揮者としてデビューした。当時のウィーンでは、「ワルツ王」ヨハン・シュトラウス2世との関係が悪化していた出版業者カール・ハスリンガーが、シュトラウス一家とは契約を結ばないよう同業者に説いて回っていた。そんなハスリンガーに後押しされ、若きツィーラーはワルツ王のライバルに仕立て上げられた[2]。
とはいえ、当時ワルツ王の最大のライバルと目されていたのはその弟ヨーゼフ・シュトラウスであり、まだツィーラーの出る幕はなかった。ワルツ王の夫人ヘンリエッテ・チャルベツキー(ドイツ語版)はツィーラーを軽視し、1868年10月には次のように書いている。
「ハスリンガーが策略をはりめぐらしても、ツィーラーには要するに才能がありません。彼の先生のハーゼルの作品を、自分の作品として出版しているのです[2]。」
しかし、1870年にヨーゼフ・シュトラウスが急逝した後、しだいに頭角を現しつつあったツィーラーはやがて名実ともにシュトラウス一族に対する最大の挑戦者となった[2]。『ウィーン娘』や『ウィーン市民』など、ツィーラーの作品のいくつかはワルツ王の作品に勝るほどの人気を得た。シュトラウス一族でないウィンナ・ワルツ作曲家としては、ヨーゼフ・ランナーやフランツ・レハールに並ぶ知名度と人気を誇る。なお、ツィーラー自身は内気な性格でありシュトラウス兄弟と対抗する気はなく、出版されたばかりの『皇帝円舞曲』のピアノ譜をもとに(勝手にではあるが)管弦楽曲に仕立て上げて披露したりと、むしろその作品に敬意を払っていたという。
ルーマニア王国の宮廷楽長を一時期務め[1]、エドゥアルト・シュトラウス1世の後任としてオーストリア=ハンガリー帝国最後の宮廷舞踏会音楽監督を1908年から1918年まで務めた[1]。第一次世界大戦の戦禍によって財産をほとんど失い、さらにオーストリア共和国樹立によって宮廷舞踏会での職も失い、1922年に失意のままに死去した。墓はウィーン中央墓地にある。
かなりの多作家として知られ、作品番号は560を超えている。
作品
オペレッタツィーラーのオペレッタの一覧(英語版)も参照。
『宮廷舞踏会』(Ball bei Hof)
『愚かな心』(Das dumme Herz)
『白魔術師』(Der bleiche Zauberer)
『観光案内人』(Der Fremdenfuhrer)