カール・ポパー
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カール・ポパー
Karl Popper
1980年代撮影
全名カール・ライムント・ポパー
生誕1902年7月28日
オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン
死没1994年9月17日(1994-09-17)(92歳)
イギリスロンドン
時代20世紀の哲学
地域西洋哲学
出身校ウィーン大学
学派分析哲学
批判的合理主義
反証主義
進化論的認識論
心身相互作用説
リベラリズム
研究機関カンタベリー大学
ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス
キングス・カレッジ・ロンドン
ケンブリッジ大学ダーウィン・カレッジ
研究分野認識論
合理性
科学哲学
論理学
社会哲学
政治哲学
形而上学
心の哲学
生命の起源
量子力学の解釈問題
主な概念批判的合理主義反証可能性境界設定問題開かれた社会ポパーの3世界論、ポパーの実験(英語版)、負の功利主義(英語版)
影響を受けた人物

ソクラテスアリストテレスデカルトカントショーペンハウアーフリースキルケゴールアインシュタインウィーン学団フリードリヒ・ハイエク、アルフレッド・タルスク、ラッセルエドマンド・バークJ・S・ミルヒュームC・S・パースフレーゲベルナルト・ボルツァーノフッサール

影響を与えた人物

フリードリヒ・ハイエクミルトン・フリードマンイムレ・ラカトシュポール・ファイヤアーベントジョージ・ソロスデイヴィッド・ミラーバートリーエルンスト・ゴンブリッチコンラート・ローレンツピーター・メダワーハンス・アルバートアーネスト・ゲルナートーマス・クーンシュミットナシーム・ニコラス・タレブその他多数

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サー・カール・ライムント・ポパー(Sir Karl Raimund Popper, CH FRS FBA1902年7月28日 - 1994年9月17日)は、オーストリア出身のイギリス哲学者ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス教授。

純粋な科学的言説の必要条件として反証可能性を提起し、批判的合理主義に立脚した科学哲学及び科学的方法の研究の他、社会主義や全体主義を批判する『開かれた社会とその敵』を著すなど社会哲学政治哲学も展開した。

フロイト精神分析アドラー個人心理学マルクス主義歴史理論人種主義的な歴史解釈を疑似科学を伴った理論として批判[1]ウィーン学団には参加しなかったものの、その周辺で、反証主義的観点から論理実証主義を批判した。
生涯

ポパーは1902年にウィーンの中流家庭で生まれた。元来がユダヤ系だった両親はキリスト教に改宗しており、ポパーもまたルター派の教育を受けた。弁護士であったポパーの父親は愛書家で、書斎には1万2千から1万4千冊の蔵書を有していたと言われ、ポパーはその様な自身の父親について「弁護士というよりは学者」であったと述べている。

13歳でポパーはマルクス主義者になったが、1919年にウィーンで社会主義者共産主義者のデモ隊と警察の衝突で若者が死亡した事件がおきると、17歳で反マルクス主義者となった[2]。その後も30歳までは社会主義者であったが、自由と社会主義が両立しうるか疑いを強めていった[2]

1928年ウィーン大学にて哲学の博士号を取得し、1930年からの6年間中学校で教鞭を取った後、1937年に『科学的発見の論理』(Logik der Forschung)を発表。心理主義自然主義帰納主義論理実証主義を批判し、科学の必要条件として反証可能性を提起し、理論として発展させた。

1937年ナチスによるオーストリア併合(アンシュルス)の脅威が高まると、ユダヤ系オーストリア人であったポパーは、ニュージーランドに移住し、南島クライストチャーチにあるカンタベリー大学で哲学講師となった。1945年に出版された主著の一つ『開かれた社会とその敵』 (The Open Society And Its Enemies) は、この時代にファシズムやマルクス主義の社会哲学を批判するものとして、第二次世界大戦前から戦中にかけて構想され、執筆されたものである。また、この間を通して、ポパーは自身の叔父叔母いとこなど親族だけで17人のユダヤ系の同胞をホロコーストの犠牲者としてナチスの強制収容所で失った[3]

第二次世界大戦が終わるとイギリスに移り、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)にて科学的方法の助教授を経て、教授となった。1958年から1年間、『アリストテリアン・ソサイエティ』誌の編集責任者を務めた。1965年にはバートランド・ラッセルからの強い推薦を受けて、女王エリザベス2世からナイトに叙任され[4]、11年後には王立協会フェロー[5]。学界を1969年の時点で退いてはいるものの、彼の学術的影響は1994年に亡くなるまで絶えることがなかった。また彼は人本主義学会の会員でもあり、ユダヤ教キリスト教道徳教育を顧慮しながらも自らを不可知論者と称していた。

ポパーの影響を受けた哲学者として、ラカトシュ・イムレ、ジョン・ワトキンス(英語版)、ポール・ファイヤアーベントらがいる。経済学者フリードリヒ・ハイエクとは友人関係だった。

哲学者になるという夢を抱いていた投資家で慈善家のジョージ・ソロスは、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)での留学生時代の夏休みに図書館から借りて読んだ『開かれた社会とその敵』に強く感銘を受けて以来(このために、ソロスはこの夏が自分の人生で最高の夏であったと述べている)、ポパーを自らの師と仰ぎ、実際に、自身の学士論文の指導教官をポパーに依頼している。

その後もソロスはポパー及びポパーの哲学から多大な影響を受け、その著書や講演で「開かれた社会」について度々語り、自身が1993年に設立した慈善団体の名称を「開かれた社会(open society)」にちなみ、「オープン・ソサエティ財団(Open Society Foundations)」と名付けている。

また、統計学者であり、ソロスと同様に投資家として巨大な成功を収めた有名な天才トレーダーの一人として知られるナシーム・ニコラス・タレブも、ポパーから絶大な影響を受けている。

量子コンピュータの発明者であり多世界解釈の権威として知られる物理学者のデイヴィッド・ドイチュは、カール・ポパーの知識論を発展させる形で「説明的知識」という概念を提唱している。

銀行家財務官僚で第31代日本銀行総裁の黒田東彦は、ポパーの著書の邦訳を手掛けているほか、2013年に新訳出版された『歴史主義の貧困』において「いま、ポパーを読む意味とは何か」という解説文を寄せている[6]
思想
科学哲学

科学哲学におけるポパーの貢献としては以下のようなものが挙げられる。
疑似科学科学の境界の設定を科学哲学の中心課題として認識したこと科学とは何かを考える上で、従来の論理実証主義的な立場では、形而下の言説の特徴に、また、命題意味検証するための理論に、主眼が置かれていた。しかしポパーは、問題の所在が、意味性にではなく、科学性と非科学性を分け隔てるところの方法性にこそある、と主張した。

反証可能性を基軸とする科学的方法を提唱したこと反証されえない理論は科学的ではない、というのがポパーの考えである(cf. 反証主義)。自らを反証する論理を命題が内蔵しないという場合はあるわけで、このような命題に基づく理論とその支持者が自らに対する反定立の存在を無視ないしアドホックに回避するところではその一連の理論体系が実質的に反証不可能となり、そこに大きな危険があるのだとポパーは指摘した(この指摘の立場自体を、ポパー自身は識別しなかったが、ラカトシュは省みて方法論的反証主義と呼んだ)。

蓄積主義的でない科学観を提案したこと反証主義の背景には、ヒューム的な見解、すなわち、或る理論を肯定する事例はその理論を立証することにはならない、という考え方がある。科学の進歩は、或る理論にたいする肯定的な事例が蓄積してこれを反証不可能たらしめてゆくところで起こるのではなく、否定的な事例が反証した或る理論を別の新しい理論がとって代えるところで起こる、というのがポパーの科学観の背景的な見解としてある。

知識のあり方を進化論的に論じたこと適者生存の法則に重きを置く進化論の観点から、知識はいかに発展するものであるかを説明した。

確率にまつわる新しい説を打ち出したこと確率を客観的に説く立場の新しいものとして、「或る事象を特定的にもたらす傾向を内在するシステム」が確率の実体であるとポパーは考えた。

社会哲学「マルクス主義批判」を参照


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