カール・ボッシュ
[Wikipedia|▼Menu]

カール・ボッシュ
Carl Bosch

生誕 (1874-08-27) 1874年8月27日
ドイツ帝国ケルン
死没1940年4月26日(1940-04-26)(65歳)
ドイツ国ハイデルベルク
国籍ドイツ
研究分野化学
研究機関BASFIGファルベン
出身校シャルロッテンブルク工科大学
主な業績ハーバー・ボッシュ法
主な受賞歴

ノーベル化学賞 (1931年)

ゲーテ賞 (1939年)

プロジェクト:人物伝
テンプレートを表示

ノーベル賞受賞者
受賞年:1931年
受賞部門:ノーベル化学賞
受賞理由:高圧化学的方法の発明と開発

カール・ボッシュ(Carl Bosch, 1874年8月27日 - 1940年4月26日)は、ドイツ化学者工学者経営者[1]

1899年にBASFに入社し、研究を開始した。1908年から1913年までフリッツ・ハーバーと共にハーバー・ボッシュ法を開発した。第一次世界大戦の後、高圧化学を用いて、ガソリンメタノールの合成の研究を続けた。1925年にはIG・ファルベンの創立者の一人となった。1931年に高圧化学的方法の発明と開発によって、ノーベル化学賞を受賞した。
生涯
生い立ち

1874年8月27日、ドイツのケルンで生まれた。カールという名前は父親の名から採られている[2]。父親はシュヴァーベンの農家の出身で、ケルンでは配線事業や、ガス・水道用の部品の製造・販売にたずさわっていた[3]。母親のパウラ・リープストはケルンの生まれである[4]。また、ロバート・ボッシュ社の創立者であるロバート・ボッシュは叔父にあたる[5]

幼いころから父親の持っている工具や機械に興味を示し、フンボルト街の高等実業学校に入ってからは家で鳥かごや飼育箱、ボートなど、様々なものを細工していた[6]。16歳のとき、一家は仕事場つきの家へと引っ越した。この頃になると化学を好むようになり、器具を入手して化学の実験をしていた[7]

1893年、高等実業学校を卒業したとき、化学者になりたいという思いを持っていた。しかし父の勧めにより、シレジアの精錬所で組立工の従弟として学ぶことになった[8]。化学から離れて職人仕事にたずさわることは本意でなかったが、仕事仲間からの評価は高かった[9]。翌1894年になると、シャルロッテンブルク工科大学(現:ベルリン工科大学)に冶金学と機械工学の学生として入学が認められた。そこでは専攻分野の講義のほか、化学の講義も受講した[10]。ただし同校では理論的な計算値よりも職人たちが感覚で導いた値を優先するようなところがあって、ボッシュは不満に思っていた[11]。そして、純粋な科学に魅力を感じたボッシュは、ライプツィヒ大学に入学した[12]

ライプツィヒ大学ではヨハネス・ウィスリセヌスのもとで有機化学を学び[13]、1898年に学位を得た[14]。大学では化学のほか、鉱物学や昆虫、植物についての講義を聞き、知見を広めた[9]。また、イギリスから講演にやってきたウィリアム・ラムゼーが希ガスのスペクトルを実演した時は、自らの手でそれを再現しようと思い、自分で装置を作り上げ、ラムゼイ講演の3日後にヘリウムのスペクトル実演を成功させた[15]
BASFへ入社

ボッシュはこのまま学問への道を進みたかったが、経済的な理由で父親からの反対を受けたため断念した[16]。父親はライプツィヒへ行き、息子の化学工場への入社についてウィスリセヌス教授に相談を持ちかけた。教授から希望先を聞かれたカール・ボッシュは、その場でBASFの名を挙げた[17]

ボッシュがBASFを志望したのは、教授や先輩の勧めによるところもあったが、同社の名声や将来性も大きな理由だった[18]。また同社には、ハインリッヒ・フォン・ブルンク(ドイツ語版)やルドルフ・クニーツといった著名な学者が在籍していたことも、ボッシュにとっては魅力的だった[19]。ボッシュは1899年1月30日付けでBASFに求職願いを出し、面接の結果、4月15日に採用になった[20]

BASF社では、新入社員はまず中央研究室に入り、そこで社員の適性を見てから配属先を決めることになっていた[21]。ボッシュも中央研究室を経てから、無水フタル酸の製造工場に回された。担当部長は、無水フタル酸の製造における硫酸水銀の触媒作用を発見したオイゲン・サッパーだった[22]。それと並行して、ボッシュは1900年、ルドルフ・クニーツからアンモニア合成に関する実験を命じられた[23]

当時、アンモニアを人工的に合成させることは、チリ硝石に代わる化学肥料に必須となる固定窒素を作り出す目的として化学者の間で注目を集めていた。そのような状況の中で、当時著名な化学者であったヴィルヘルム・オストヴァルトは1900年、鉄の針金を触媒として、窒素と水素を適切な温度・圧力のもとで合成させることでアンモニアを作ることに成功した[24]。そこでオストヴァルトは、さっそくその方法で特許を申請し、BASFをはじめとする数社に売り込みをかけた[25]。BASFはこの内容に興味を示し、社内で追試することにした。この追試を任されたのがボッシュだったのである。このときボッシュは入社してまだ1年もたっていなかった[25]

ボッシュは実験をしてみたが、何度やってもオストヴァルトの結果が再現できなかったので、上司にそのように報告した[23]。これを聞いてオストヴァルトは怒り、会社の重役室までやってきた。そして、「そうです。もし貴方達が、新参で無経験で何もできない化学者に命じたならば、もちろん何も出てこないでしょう」と言った[26]。その後ボッシュはオストヴァルトと激しく論争したり、オストヴァルトが実際に使った針金で実験したりしてみたが、結局上手くゆかなかった[26]。しかしボッシュは実験しているうちに、事の実態がだんだん分かってきた。オストヴァルトが使った針金には不純物である窒化鉄が付着していて、それが水素と反応してアンモニアが生成されていたのである[27]。オストヴァルトもやがてはそれを認め、特許を取り下げ、この問題から手を引いた[25]

この事件によって、ボッシュは、問題を発見する能力や、化学界の大物にもひるまずに自己を貫いたことなどが評価され、上司からの信頼を得ることができた[28][29]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:141 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef