カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ
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カール・フィリップ・エマヌエル・
バッハ
Carl Philipp Emanuel Bach

基本情報
生誕1714年3月8日
ドイツ国民の神聖ローマ帝国
ザクセン=ヴァイマル公領
ヴァイマル
死没 (1788-12-14) 1788年12月14日(74歳没)
ドイツ国民の神聖ローマ帝国
自由ハンザ都市ハンブルク
職業作曲家
活動期間古典派音楽
アドルフ・フォン・メンツェル作画の「無憂宮におけるフルート演奏」。1852年歴史画であり、作者の想像に基づいている(実際の現場を忠実に模写したものでない)。中央で右向きに立ってフルートを吹いているのがフリードリヒ大王で、そのかたわらに(閲覧者に背を向けて)腰掛け、大王を横目に見ながらチェンバロで伴奏しているのがカール・フィリップ・エマヌエル.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル クラシック音楽

カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ (Carl Philipp Emanuel Bach, 1714年3月8日 ヴァイマル - 1788年12月14日 ハンブルク[1])はドイツ作曲家ヨハン・ゼバスティアン・バッハが最初の妻マリア・バルバラともうけた次男。父よりも、父の友人ゲオルク・フィリップ・テレマンの作曲様式を受け継ぎ、ギャラント様式多感様式を追究して、古典派音楽の基礎を築き、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンベートーヴェンにも影響を与えた。

生前は父のヨハン・ゼバスティアンよりも有名で、ヨハン・クリスティアンと同様に世俗的な成功を収めたが、本人は父の指導があったからこそ自分が成功することができたと訴え続けた。その意味においては、初期のバッハ神話を創り出した張本人であったと言える。

他のバッハ一族の作曲家と区別するために「ベルリンのバッハ」、「ハンブルクのバッハ」などとも呼ばれ、晩年は後に父の尊称となる「大バッハ」とも呼称された。
生涯

ヴァイマル出身。彼が生まれた時に名付け親となったのは、父の友人ゲオルク・フィリップ・テレマンであった。彼の名前にある「フィリップ」は、テレマンの名前にちなんだものである。1717年、家族と共にケーテンに移り、1723年には父のトーマスカントル就任とともにライプツィヒに転居した。10歳のとき、父親がカントルを務めるトマス教会附属学校(トーマスシューレ)に入学。1731年ライプツィヒ大学に進学した後、1734年フランクフルト・アン・デア・オーダーのヴィアドリーナ大学(Alma Mater Viadrina)に転学し、1738年法学学位を取得するが、間もなく司法生としての行く手を断念し、音楽に献身しようと決心する。

それから数ヵ月後に、プロイセン王国皇太子フリードリヒ(後のフリードリヒ2世)のルピーンの宮廷(ラインスベルク宮殿(英語版))にチェンバロ奏者として奉職し、1740年にフリードリヒ2世が国王に即位すると、ベルリンの宮廷楽団員に昇進した。この頃になるとヨーロッパでも最先端のクラヴィーア奏者のひとりとなっており、1731年にさかのぼる作曲活動も、お気に入りの鍵盤楽器のための、30曲のソナタや数々の小品が含まれるようになっていた。

作曲家としての名声は、それぞれフリードリヒ大王とヴュルテンベルク大公に献呈された、別々の2つのソナタ集によって打ち立てられた。1746年には王室楽団員の地位に昇り、それから22年の間、カール・ハインリヒ・グラウンヨハン・ヨアヒム・クヴァンツヨハン・ゴットリープ・ナウマンらと並んで、大王の寵愛を受け続けた。

ベルリン時代の代表作として、父親の影響を最も強くとどめた《マニフィカト》(1749年)のほか、《復活祭カンタータ》(1756年)、いくつかの《シンフォニア(交響曲)》や数々の協奏的作品、さらに3巻の歌曲集や、若干の世俗カンタータやその他の機会音楽を挙げることができる。

1767年に名付け親のテレマンが亡くなると、彼はフリードリヒ大王の制止を振り切り、1768年ハンブルクへ転出。ヨハネウム学院カントル職を継ぐとともに、テレマンが楽長をしていた楽団の後任として新たに楽長となった(一説には、フリードリヒ大王のもとでの演奏活動に嫌気がさしたためとも伝えられる)。この機に、鍵盤楽器の門人で王妹アマーリアより宮廷楽長の称号を授与されている。ハンブルクでは、ヨハーネウム寄宿学校のカントルも兼務し、ベルリン時代よりもいっそう宗教音楽に注意を寄せるようになった。ハンブルク到着後にオラトリオ《荒野のイスラエルびと Die Israeliten in der Wuste》を完成させる。この作品は、そのすぐれた美しさのためだけでなく、フェリックス・メンデルスゾーンの《エリヤ》との類似点ゆえに知られている。1769年から没年の1788年まで20曲の受難曲や約70曲のカンタータのほか、連祷モテットなどの宗教曲を手懸けた。また同時にハイドンの活動にも刺戟されて、器楽曲の奇才ぶりも発揮した。1788年にハンブルクにて逝去。フリードリヒ・ゴットリープ・クロプシュトックとヨハン・ヴィルヘルム・ルートヴィヒ・グライム(英語版)が弔詞を書いた。また遺作の大部分はのちにゲオルク・ペルヒャウ(ドイツ語版)によって編集された。

カール・フィリップ・エマヌエル・バッハは、兄弟のなかでは誰よりも、父親バッハへの敬意と、バッハ家の音楽的・宗教的伝統への忠誠を、強く自覚し続けていたものの、いずれも夭折した二人の息子は、音楽家にならず、祖父と同じ名前を与えられた次男ヨハン・ゼバスティアン2世は、ローマで画家としての修行中に病に倒れて亡くなっている。したがって、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハの直接の末裔は実在しない。

長い生涯を通じて、カール・フィリップ・エマヌエルはクラヴィーア演奏の巨匠であり続け、チェンバロよりも、むしろクラヴィコードフォルテピアノに愛着を示した。おのずとクラヴィーア曲が多くなり、200曲近い独奏曲が遺された。鍵盤楽曲における代表作として、ベルリン時代には「変奏される反復部つきの mit veranderten Reprisen」小品(1760年 - 1768年)がある。いっぽう、ハンブルク時代の精華は、《専門家と愛好家のためのソナタ集・幻想曲集・ロンド集》(1779年から1787年にかけて6巻で分冊出版)である。彼の体系的かつ理論的なクラヴィーア教則本『正しいクラヴィーア奏法への試論 Versuch uber die wahre Art das Clavier zu spielen』(第一部1753年、第二部1762年)によって、彼はヨーロッパの音楽理論家としても最前線に押し出されることとなり、ムツィオ・クレメンティヨハン・バプティスト・クラーマーらの指導法の基礎にもなった。


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