カール・ハウスホーファー
Karl Haushofer
1920年頃
生誕1869年8月27日
バイエルン王国 ミュンヘン
死没 (1946-03-13) 1946年3月13日(76歳没)
連合国軍占領下のドイツ
バイエルン州 ペール
所属組織 ドイツ帝国陸軍(バイエルン陸軍
カール・エルンスト・ハウスホーファー(Karl Ernst Haushofer、1869年8月27日 - 1946年3月13日)は、ドイツの陸軍軍人、地理学者、地政学者。ミュンヘン大学教授。最終階級は陸軍少将。旧バイエルン王国出身。ランドパワー(陸上権力)を重視するドイツ地政学の祖。日本との関係が深い人物である。
経歴
軍歴(ドイツ語版)を卒業した後、1年間の志願兵としてドイツ帝国のバイエルン陸軍第一野砲連隊「Prinzregent Luitpold」(「摂政王子ルイトポルト」)に入営する。
1896年、父の代でユダヤ教からカトリックに改宗したタバコ製造業者の娘であるマルタ・マイアー=ドース(ドイツ語版)と結婚する。二人の息子、アルブレヒト(ドイツ語版)とハインツ(ドイツ語版)をもうけた。
1888年、バイエルン王国陸軍第一野砲兵連隊の士官候補生となる。1898年に高級士官の登竜門であるバイエルン陸軍大学校(ドイツ語版)を修了し、1899年から2年間、参謀本部へ異動。1901年、陸軍大尉として原隊に復帰し、3年間砲兵中隊長を務める。
1904年より参謀本部中央事務局に異動。さらに陸軍大学校への辞令を受け戦史(軍事史)教官となるが、1907年の学期半ばでプファルツ地方ランダウのバイエルン第3師団の参謀に異動させられる。これを懲罰的措置とみなしたハウスホーファーは、陸軍軍人としての栄達を諦め、地理的研究のキャリアを志向し始める[1]。
1908年(明治41年)から1910年(明治43年)まで、駐日ドイツ大使館付武官として勤務。帰国後まもなく重い肺病を患い、3年間の休職を命じられた[2]。その間、1911年から1913年に博士論文「大日本」(Dai Nihon: Betrachtungen uber Gross-Japans Wehrkraft, Weltstellung und Zukunft)をまとめ、哲学博士(Doktor der Philosophie)の学位を取得。
40代に入っても陸軍少佐にとどまっていたが、第一次世界大戦で西部戦線に従軍して急速に昇進し、砲兵連隊長などを務めて名誉陸軍少将の階級を受ける[3]。
ドイツ地政学の祖・ヒトラーとの出会い1920年頃のハウスホーファーとヘス。
第一次世界大戦後はミュンヘン大学にて大学教授資格(ハビリタチオン)を取得し、1921年に同大学の地理学教授となる[3]。ハウスホーファーは、自然地理的環境と政治との相互関連を強調し、スウェーデンのルドルフ・チェーレンが提唱した地政学を継承して大成させた[4]。
1919年にハウスホーファーは教え子としてルドルフ・ヘスと知り合い、1921年にはアドルフ・ヒトラーと出会った[3]。1923年のミュンヘン一揆の際には逃亡するヘスを一時匿い、ランツベルク刑務所に収監されていたヒトラーと面会した。ヒトラーはハウスホーファーの生存圏(レーベンスラウム)の理論に興味を覚え、「生存圏を有しない民族であるドイツ人は、生存するために軍事的な拡張政策を進めねばならない」として、ナチス党の政策に取り入れた。しかしハウスホーファーは「(ヒトラーが)それら(地政学)の概念を理解していないし、理解するための正しい展望も持ち合わせていないという印象を受けたし、そう確信した」と見てとり、フリードリヒ・ラッツェルなどの地政学基礎の講義をしようとしたが、ヒトラーは拒絶した。ハウスホーファーはこれをヒトラーが「正規の教育を受けた者に対して、半独学者特有の不信感を抱いている」事によるものであるとみていた[4]。 ナチス党が政権に就いた1933年にはミュンヘン大学の正教授に就任した。1934年から1937年までドイツ学士院
ナチス政権下
妻がユダヤ系であったこともあって、1938年頃にはハウスホーファー本人はナチズムに幻滅するようになっていたといわれるが[3]、1939年には親衛隊のドイツ民族対策本部(ドイツ国籍を持たない在外ドイツ人との連携機関)に籍を置いた。ベルリンにあるアルブレヒトの記念碑
1941年5月10日に教え子のヘスが、イギリスとの単独和平を目論みメッサーシュミット Bf110で渡英した際には、事前にヘスと会っていたことや長男で外交官だったアルブレヒト(ドイツ語版)がイギリスにおける接触先としてハミルトン公ダグラス・ダグラス=ハミルトンを紹介していたことが問題視された。そして同年独ソ戦が開始されたことから、地政学上の見地からソ連との関係強化を主張したハウスホーファーとヒトラーの関係は疎遠になる。
さらに息子アルブレヒトが1944年7月20日のヒトラー暗殺計画に関わっていたことでゲシュタポの監視下に入った。アルブレヒトは逃走していたが、同年12月に逮捕され、ベルリン陥落直前の1945年4月末に処刑された。ハウスホーファーは息子の死を大いに嘆いた[3]。