カール・ニールセン
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カール・ニールセン
Carl Nielsen
1910年
基本情報
出生名Carl August Nielsen
生誕1865年6月9日
出身地 デンマーク、ノーレ・リュンデルセ
死没 (1931-10-03) 1931年10月3日(66歳没)
 デンマークコペンハーゲン
ジャンルロマン派音楽近代音楽
職業作曲家
ヴァイオリニスト
担当楽器ヴァイオリン
活動期間1888年 - 1931年
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カール・ニールセン(またはニルセン、ニルスン[1]、 Carl August Nielsen デンマーク語発音: [k???l ?nelsn?], 1865年6月9日 - 1931年10月3日)は、デンマーク作曲家。デンマークでは最も有名な作曲家であり、同国のみならず北欧を代表する作曲家として知られている。
経歴

フュン島の貧しいながらも音楽的才能の豊かな家庭に育ち、早くから音楽的能力を示した。当初は軍楽バンドで演奏したが、その後、1884年から1886年12月にかけてコペンハーゲンデンマーク音楽アカデミーに通った。作品1となる弦楽合奏のための小組曲が初演されたのは1888年、作曲者が23歳の時であった。翌年から16年間にわたりヨハン・スヴェンセン指揮者を務めるデンマーク王立管弦楽団で第2ヴァイオリンを務め、この間にジュゼッペ・ヴェルディの『ファルスタッフ』と『オテロ』のデンマーク初演を演奏している。1916年にデンマーク音楽アカデミーで教員のポストに就き、以降没するまでその職にとどまった。

今でこそ彼の交響曲協奏曲合唱曲は国際的に高く評価されているが、ニールセンのキャリアと私生活は多くの困難を抱えており、それらはしばしば音楽にも表出された。1897年から1904年の間に書かれた作品は彼の「心理」期の作品であるとされることもあり、主に彫刻家のアネ・マリーイとの荒れた結婚の結果生まれたものである。ニールセンはとりわけ6曲の交響曲、木管五重奏曲ヴァイオリン協奏曲フルート協奏曲クラリネット協奏曲が著名である。デンマークではオペラ仮面舞踏会』や多くの歌曲が欠くことのできない国の財産となっている。初期にはブラームスグリーグといった作曲家に触発される形で音楽を書いていたが間もなく自身独自の様式を発展させ、まず発展的調性(英語版)の実験を行い、後には当時まだ一般的だった標準的作曲法に比べると遥かに急進的な道を選んでいった。最後の交響曲となる交響曲第6番は1924年から1925年にかけて作曲された。その6年後に心臓発作でこの世を去り、亡骸はコペンハーゲンのヴェストレ墓地(英語版)に埋葬された。

生前のニールセンの評価は国内と国外の両方で傍流の音楽どまりであった。1960年代以降にレナード・バーンスタインらを通じて人気の高まりを見せ、ようやく彼の作品は国際的なレパートリー入りを果たすことになる。デンマークでは2006年に文化省が国の最も偉大な音楽12曲を選定した際に、ニールセンの作品から3曲が選ばれて彼の名声は折り紙付きのものとなった。彼が残した大衆向けの歌曲や合唱曲はデンマークの学校や家庭などに広く普及し、今日でも歌われている。デンマークの100クローネ紙幣には長年にわたり彼の肖像画が描かれていた。オーデンセカール・ニールセン博物館には彼と彼の妻の生涯が記録として残されている。1994年から2009年の間にデンマーク政府の資金援助を受けたデンマーク王立図書館が『カール・ニールセン・エディション』を完成した。これによりそれ以前には出版されたことのなかった多くの作品を含む、ニールセンの全作品の背景情報と楽譜がオンライン上で無料で入手できるようになった。

同国の作曲家にルドルフ・ニールセン(1876年1月29日 - 1939年10月16日)がいるが、縁戚関係はない。同年生まれの北欧の作曲家に、フィンランドジャン・シベリウスがいる。
年譜

1865年 フュン島のノーレ・リュンデルセに生まれる。

1871年 この頃から、父の楽団に入りヴァイオリンを弾くようになった。

1879年 オーデンセの軍楽隊に欠員が出たため応募し、1ヶ月の練習で合格した。

1884年 デンマーク音楽アカデミーをヴァイオリンで受験したが不合格。ニルス・ゲーゼに作品を見せると作曲科に合格が許された。

1888年 卒業後に弦楽四重奏曲第1番、弦楽五重奏曲、「弦楽のための《小組曲》」などの作品を発表する。

1889年 王立劇場オーケストラのヴァイオリン奏者となり、ヨハン・スヴェンセンの下でオーケストラの活動を開始。

1891年 パリでアネ・マリーイと出会い、結婚。

1892年 交響曲第1番を完成。

1901年 4幕からなる歌劇『サウルとダヴィデ』を完成。

1902年 交響曲第2番『四つの気質』を発表。

1903年 ギリシャを旅し、エーゲ海の日の出に感激して序曲『ヘリオス』を作曲。

1906年 2作目の歌劇『仮面舞踏会』、弦楽四重奏曲第4番を発表。

1908年 スヴェンセンが王立劇場楽長を引退し、その後を引き継いだ。

1911年 交響曲第3番『ひろがりの交響曲』ヴァイオリン協奏曲を完成。

1914年 第一次世界大戦のため王立劇場楽長を辞任。

1915年 デンマーク音楽アカデミーの理事に就任。音楽協会で指揮者として活動した。

1916年 交響曲第4番『不滅(滅ぼし得ざるもの)』を完成。ピアノ曲『シャコンヌ』、『主題と変奏』を発表。

1922年 交響曲第5番管楽五重奏曲を完成。このころより作風が変化し、より難解で内向的なものになっていく。

1925年 交響曲第6番『素朴な交響曲』を完成。

1931年 オルガン曲『コンモツィオ』完成。デンマーク音楽アカデミーの院長に就任。逝去。

生涯
若年期ノーレ・リュンデルセ(デンマーク語版)近郊、Sortelungにあるニールセンが幼少期を過ごした家。


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