カール・ツァイス
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この項目では、ドイツの企業グループ全体について説明しています。同社の創業者である個人については「カール・フリードリヒ・ツァイス」をご覧ください。

カール・ツァイス (Carl Zeiss) は、次のいずれかをいう。
1846年イェーナで創業し1889年「カール・ツァイス財団」傘下に入ったドイツの光学機器製造会社カール・ツァイス社

1889年エルンスト・アッベにより設立され「カール・ツァイス社」を傘下としたカール・ツァイス財団(Carl Zeiss Stiftung )

カール・ツァイス財団とその傘下企業を含んだカール・ツァイス・グループ

カール・ツァイス社によって他企業に使用を許可した光学関連商品のブランド名

本稿においては、カール・ツァイス AGを含め、カール・ツァイス・グループ全体について解説する。
カール・ツァイス AG

カール・ツァイス AG
種類アクツィエンゲゼルシャフト
業種イメージング
設立イェーナ, ドイツ (1846)
本社オーバーコッヘン, ドイツ
主要人物Dr. Dieter Kurz, CEO兼社長
製品半導体リソグラフィー装置、光学・電子・イオン顕微鏡三次元測定機フィールドスコープ、精密双眼鏡望遠鏡暗視装置、レーザー式レンジファインダー、ライフルスコープ、 プラネタリウム投影機と他の光学機器
売上高? 2,731,000,000[1] (2007/08)
利益? 233,000,000[2] (2006/07)
従業員数13,060人 (2008年9月30日)[1]
ウェブサイト ⇒www.zeiss.com 

カール・ツァイス AG (Carl Zeiss AG) は、ドイツ光学機器および光電子工学のメーカーで、1846年に光学者カール・ツァイスがドイツのイェーナで設立した会社である。エルンスト・アッベ(1866年入社)、オットー・ショット(1884年入社)と共に、今日の多国籍企業の基礎を築いた。現在のツァイスは、東西ドイツのカール・ツァイス社の再統一と1990年代の統合によって誕生した。ツァイスは、ほぼ50カ国で産業品質と研究、医療技術、消費者市場、半導体製造技術の4つの事業分野でほぼ同程度の売上で活動しており、世界中に30の生産拠点と約25の開発拠点を持つ。

カールツァイスAGは、ツァイスグループ内の全子会社の持株会社であり、そのうちカールツァイスメディテックAGは株式市場で取引されている唯一の会社である。カールツァイスAGは財団法人カールツァイス財団の所有となっている。カールツァイスグループは南ドイツの小さな町オーバーコッヘンに本社を置き、東ドイツのイェーナには第二の創業地がある。カールツァイス財団は、マインツイェーナにあるガラスメーカー、ショット AGも支配下に置いている。カールツァイスは現存する世界最古の光学機器メーカーの一つである。
歴史
誕生?発展1910年頃のツァイス工場ツァイスの顕微鏡

カール・フリードリヒ・ツァイスイェーナ顕微鏡製造のための工房を開設し、イェーナ大学の植物学者で細胞説で有名なマティアス・ヤーコプ・シュライデンの激励を受け大学の研究室で使われる光学機器を製作し、高い評価を受けるようになった。当時の志は一流顕微鏡の製造であり、そのために州庁に工場設立の申請を出したが許可はなかなか許可されなかった。ツァイスは父から100タラーの融資を受けて1846年秋[3]業務を開始した。業務開始後まもない1846年11月19日付でザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国の州監督から許可通知書が発行された[3]

ツァイスはさらにシュライデンの助言を受けて顕微鏡を改良し1850年代以降には顕微鏡の品質で一般から広く認められるようになる。チューリンゲン一般工業博覧会で1857年に銀賞[3]1861年には金賞を獲得[3]1866年には通算生産台数1,000台を数えた[4]

しかし工業博覧会などでの成功にもかかわらず、ツァイスは製品に満足していなかった[3]。学問の発展に伴い研究用機器への要求はますます高度になりつつあり、改良の糸口を数学的計算に基づく設計に求め、自力で公式を立てようと試みたが、ツァイスに数学の知識がなく、すでに高齢であったこともあり、思うような結果は得られなかった[3]。さらなる発展は望むには専門的に光学を勉強したブレーンが会社に必要と判断し、以前師匠のカール・ケルナーと働いていた数学者バアルフウスに助言を求めたが、この試みは無駄になった[3]。1866年[3]にイェーナ大学の講師エルンスト・アッベ[3]と学術実験用の機器製作を通じて知り合い、助言を求め、アッベも実際の検証が伴わない理論など神学に毛の生えたようなものでどうしても高度な実験機材が必要だと考えていた。ここで両者は一致したが、アッベは機械や簡単な望遠鏡には数学を応用することは可能でも顕微鏡への応用はあまりに複雑で難しいと考えており、ツァイスに釘を刺した上で数学的な計算には応じる旨同意[3]、共同で光学機器の性能向上技術を開発するようになった。当初は経験に公式を当てはめたような状態であったが1872年にはアッベの計算に基づいて設計された顕微鏡が出荷され、高く評価された[4]。業績は著しく向上し、1875年にツァイスはアッベに共同経営に参画するよう働きかけ、1876年にアッベは共同経営者として参加した[3]。この頃の従業員数は50人程になっていた[4]

次に障害になったのは光学ガラスの素材であったが、1879年から[3]フリードリッヒ・オットー・ショットがガラス工学技術を提供することとなり、良質のガラスレンズの材料とすることによって世界最高水準の光学機器会社としてさらに発展することとなった[5]

高い評価を聞きつけて優秀な人材が集まるようになり、例えば1886年にはすでに高名な数学者だったパウル・ルドルフを迎えている[3]
財団の誕生

アッベはことあるごとにツァイスに対し工場経営の抜本的改革を申し入れていた[4]が、実現しないままカール・フリードリヒ・ツァイスは死去した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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