カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム
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 フィンランド政治家カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムCarl Gustaf Emil Mannerheim
マンネルヘイム将軍(1940年)
生年月日 (1867-06-04) 1867年6月4日
出生地 フィンランド大公国 トゥルク・ポリ州
アスカイネン村(英語版) ロウヒサーリ
没年月日 (1951-01-27) 1951年1月27日(83歳没)
死没地 スイス ヴォー州
ローザンヌ郡 ローザンヌ
前職軍人
配偶者アナスタシア・アラフォヴァ
サイン
第3代フィンランド共和国大統領
在任期間1944年3月8日 - 1946年3月1日
フィンランド王国摂政
在任期間1918年12月12日 - 1919年7月26日
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カール・グスタフ・“クスター”・エミール・マンネルヘイム(フィンランド語: Carl Gustaf "Guster" Emil Mannerheim フィンランド語: [?k??? ????stav ?e?m?l ?man??r?he?m] ( 音声ファイル)、1867年6月4日 - 1951年1月27日)は、フィンランド軍人大統領フィンランド軍の最高司令官としてフィンランド内戦冬戦争継続戦争ラップランド戦争を指揮した。

士官候補生としてロシア帝国陸軍に入隊し、日露戦争などで実績を積み将軍となった。第一次世界大戦中にフィンランドが独立すると、その後の混乱から起こったフィンランド内戦で、白衛軍(英語版)の司令官として闘った。独立早期、フィンランドが君主制を目指した際には摂政として連合国に独立承認を求めた。その後、一時は公職を離れたが、第二次大戦突入前の情勢不安の中で先の実績を買われて国防委員長となり、軍の装備の更新などに力を入れた。その後のソ連との戦争である冬戦争継続戦争においては最高指揮官となり、フィンランドの防衛を行った。継続戦争の戦況悪化とナチス・ドイツとの同盟の責任から大統領を辞したリスト・リュティを継いで、1944年から1946年にかけて第6代大統領となり、ラップランド戦争でナチス・ドイツと戦い、ソ連との難しい講和を成し遂げ、独立を保った。

2000年フィンランド国内の調査においてフィンランドで最も偉大な人物として選ばれた[1]
生い立ちマンネルヘイムの父、父カール・ロベルト・マンネルヘイム(英語版)マンネルヘイム(向かって右端)と兄弟達

父カール・ロベルト・マンネルヘイム(Carl Robert Mannerheim)と母ヘドウィグ・シャルロッタ・ヘレネ・フォン・ユーリン(Hedvig Charlotta Helena von Julin)の第3子としてフィンランド南西部にあるトゥルクのアスカイネン村(英語版)のロウヒサーリで生まれた[2]。父はリベラルで急進的な思想を持つ劇作家である一方、製紙会社を起業していた[2]。母は有名メーカー・フィスカースの経営者、ヨハン・ヤコブ・フォン・ユーリン(Johan Jacob von Julin)の娘であった。母方の祖先はスウェーデンセーデルマンランド地方の出身とされる[3]

マンネルヘイム家はドイツ人の実務家でハンブルクの工場の経営者、ハインリヒ・マールハイン(Heinrich Marhein, 1618年 ? 1667年)が元とされる。マールハインはスウェーデンイェヴレへ移住しヘンリーク・アウグスティン・マールヘイン(Henrik Augustin Marhein)と改名した[4]。マールヘイン家の出身はオランダとされていたが、現代ではそれは覆されている[4]。マンネルヘイムの父方の祖先にはスコットランド人がいたとされ、その先祖とされるジョージ・ライト(George Wright)は17世紀にダンディーからスウェーデンに移住してフィンランド貴族フォン・ライト一族(英語版)の創始者となった[5]。ヘンリーク・アウグスティンの息子のアウグスティン・マールヘインは1693年に苗字の響きの良さをあげるために苗字を「マンネルヘイム」と変えた。アウグスティンの息子ヨハン・アウグスティン・マンネルヘイムは大佐で工場監督となり、兄弟とともに1768年に男爵の地位まで上がった。

マンネルヘイム家がフィンランドに移ったのは18世紀のことである[2]。カール・グスタフ・マンネルヘイムの曽祖父であるカール・エリック・マンネルヘイム(Carl Erik Mannerheim)はスウェーデンからフィンランドへ移住し[2]ロシア帝国に半分自治を認められていたフィンランド大公国で市民軍の将校になり、議会議員になった。1825年にエリックは更に伯爵の称号を得た。エリックの息子のカール・グスタフ・マンネルヘイム(英語版)は昆虫学者として有名になり、ヴィープリ王宮で首相を務めた。彼の孫がカール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムである。

マンネルヘイムはスウェーデン語で育ったが7歳になるとヘルシンキの学校へ進み、フィンランド語で教育を受けた[2]。父は金融取引に楽観的過ぎる障害に苦しんだ。1870年代から会社の経営が悪化すると[2]、賭け事で経済状況をより悪化させて1880年に破産した。負債の支払いの為にロウヒサーリの荘園を含む土地や美術品を手放し、妻を置いて愛人とパリへ去った[6]。母のヘレネはこの破綻と夫に捨て去られたショックで精神を弱め[7]、1881年に心臓発作で死去した[2]。母の死によってマンネルヘイム家の7人の子供たちは親類の手によって別れて育てられることになり、母方の叔父アルベルト・フォン・ユーリン[8]と叔母ルーイスが法定後見人となった、この夫妻の住んでいたサールヴィクに居を移した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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