カール・エルンスト・フォン・ベーア
生誕 (1792-02-17) 1792年2月17日
ロシア帝国エストランド県(現在の エストニア)クライス・イェルヴェン
カール・エルンスト・フォン・ベーア (Karl Ernst von Baer 1792年2月28日(ユリウス暦 2月17日)[1] ; † 1876年11月28日(ユリウス暦 11月16日)) は、哺乳類の卵子を発見したエストニア出身のバルト・ドイツ人発生学者、動物学者、人類学者、地理学者、探検家、博物学者。発生学の父と称せられる。
胚におけるベーアの法則(英語版)だけでなく、コリオリの力によってもたらされる河岸における異なった侵食のはたらきをする同じ用語名(ベーアの法則 (地理学))を冠した法則も定めた。
19世紀における最も重要な自然科学者の一人。多数の自然科学的分野における成果のため、しばしば、「北のアレクサンダー・フォン・フンボルト」と称せられる。植物や菌類における著者名略記(英語版)は"BAER“。ロシア名は、カルル・マクシーモヴィッチ・ベール (ロシア語: КарпBМакси?мович Бэр)。 バルト・ドイツ人の政治家で領地所有者ヨハン・マグヌス・フォン・ベーア
生涯
生い立ち
発生学の研究かつてサンクトペテルブルクのネヴァ川の畔にあったアカデミー本部老齢のベーア、ユリー・ヴィルヘルミーネ・ハーゲン・シュヴァルツ(英語版)による肖像画 1867年
主にキャリアのはじめ数年間で発生学において注力した研究として以下がある。
哺乳類の卵細胞を発見(1827年)
胚葉の概念に基づいた比較発生学の確立
脊椎動物の基本的な構造としての脊索の同定
反復説の体系的な批判
ベーアは、ケーニヒスベルクで発生学の研究を始め、1827年に哺乳類、なかでも特にヒトの卵細胞を捉えた。(Von einer Eizelle kann erst nach der Formulierung der Zellentheorie 1838/39 die Rede sein.) このベーアの研究の成功で、長年にわたる「哺乳類の卵細胞」の探求は完了した。彼は同じ年に、この重要な発見についてサンクトペテルブルク科学アカデミーへ送ったラテン語で書かれた手紙の中で記し(『De ovi mammalium et hominis genesi』ライプチヒ1827)また、1828年にドイツの論文(Commentar, in Heusingers Zeitschrift fur organische Physik)でも報告している。1826年、初めてSpermatozoon精子(ギリシャ語で精液中の生物)の用語を使用した。1828年、ベーアは初めて脊椎動物の共通の特徴として脊索をみいだした: 「この一続きの構造は、胚における最初の一部をその周囲に形成する軸だけでなく、体全体すべての主要な構成の目盛りとなる」 (so Baer 1828) [3]。これは、ヒトの系統群の関係をヤツメウナギにまで拡大することを意味する大事な概念である。 ベーアは発生学的研究で2巻にわたる研究論文『Uber Entwickelungsgeschichte der Thiere』(1828/1837)を発表し、 1876年の英国における訃報では19世紀で最も重要な生物学の著作だと記された[4]。 ベーアは、胚発生における特徴の増加を、哺乳動物と鳥類に加えて、さらに爬虫類、両生動物、魚類および無脊椎動物で示した (ベーアの法則 (発生学)(ドイツ語版)) (Baer-Regel)。脊椎動物の胚に関しての特性を、最初に鳥、ひよこ鳥、そして最後に飼い鶏で示した。特徴の増加のこの法則は、ローレンツ・オーケン、ヨハン・フリードリヒ・メッケルその他多数が示した反復説の説明とは対照的である。異なる動物群の間の発生段階に対応し、始めから脊椎動物は、脊椎(すなわち脊索の登場)として出現する。たとえば、虫や軟体動物等は決して脊椎動物として示され無い。ベーアはこの反復説を激しく批判し(特に『発生史』第5巻 5. Scholion der Entwicklungsgeschichte, 1. Bd.)、後にエルンスト・ヘッケルによって生物遺伝の基本法則としてさらに発展させることになる。
アカデミー会員ドルパート (現在のタルトゥ) 1866年
サンクトペテルブルク科学アカデミーやサンクトペテルブルク大学に勤めていた友人だった発生学者クリスティアン・パンダーの後継として1834年にロシアへ赴いた。1834年から1846年まで動物学者として、1846年から1862年まで解剖学者や生理学者としてそれぞれ勤務した。ベーアは長い間、アカデミーの中心人物であった[5]。