カール・エルンスト・フォン・ベーア
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カール・エルンスト・フォン・ベーア

生誕 (1792-02-17) 1792年2月17日
ロシア帝国エストランド県(現在の エストニア)クライス・イェルヴェン ピープ(ピーベ)(現在のラッケ)
死没1876年11月16日(1876-11-16)(84歳)
ロシア帝国エストランド県(現在の エストニア)ドルパット(現在のタルトゥ
研究分野生物学
発生学
地質学
博物学
自然科学
気象学
地理学
研究機関ドルパート大学
ロシア科学アカデミー
ケーニヒスベルク大学
ロシア地理学協会
出身校ドルパート大学
主な業績哺乳類卵細胞の発見
ベーアの法則(英語版) (発生学)
ベーアの法則(英語版) (地質学)
主な受賞歴コプリ・メダル (1867)
プロジェクト:人物伝
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ドイツ、ヴェストファーレンからきたバルト移民の家柄、フォン・ベーア, エードレ・フォン・フートホルン家の紋章1864年ころのカール・エルンスト・フォン・ベーア、自伝を著している所

カール・エルンスト・フォン・ベーア (Karl Ernst von Baer 1792年2月28日ユリウス暦 2月17日)[1] ; † 1876年11月28日ユリウス暦 11月16日)) は、哺乳類卵子を発見したエストニア出身のバルト・ドイツ人発生学者動物学者人類学者地理学者探検家博物学者発生学の父と称せられる。

におけるベーアの法則(英語版)だけでなく、コリオリの力によってもたらされる河岸における異なった侵食のはたらきをする同じ用語名(ベーアの法則 (地理学))を冠した法則も定めた。

19世紀における最も重要な自然科学者の一人。多数の自然科学的分野における成果のため、しばしば、「北のアレクサンダー・フォン・フンボルト」と称せられる。植物や菌類における著者名略記(英語版)は"BAER“。ロシア名は、カルル・マクシーモヴィッチ・ベール (ロシア語: КарпBМакси?мович Бэр)。
生涯
生い立ち

バルト・ドイツ人の政治家で領地所有者ヨハン・マグヌス・フォン・ベーア (Johann Magnus von Baer)(1765年?1825年)およびロシア将校の娘ユリー・マリー・フォン・ベーア (Julie Marie von Baer)(または、ユリアーネ・ルイーゼ・フォン・ベーア Juliane Louise von Baer)(1764年?1820年) の間の子として誕生した。1808年から1810年にかけてレヴァル(現在のタリン)にあったドイツ語騎士学校リッター・ウント・ドームシューレ・ツー・レヴァル (Ritter- und Domschule zu Reval)に通った。その後、1814年まで、1802年に再建されたドルパート大学で(現在のタルトゥ大学)医学を修めた。「エストニア風土病: De morbis inter esthonos endemicis, 1814」と題する医学論文で博士号を取得し、さらにウィーン、ベルリン、そして、のちに新境地に導いてくれたイグナーツ・デリンガー(英語版)が勤めていたヴュルツブルクで研究を続けた。ウィーンにいたベーアは医者として働くことを希望せず、1816年から1817年までベルリンで自然科学を研究した。1816年にドルパート大学在学中最も重要な恩師の一人であったフリードリヒ・ブルダッハ(ライプツィヒ出身の解剖学者,生理学者)がケーニヒスベルク大学の教授となり、そのもとで死体解剖者 (Prosector)としての職に就き、教授資格認定 (Habilitation)を取得した。1817年から1834年までケーニヒスベルクでベーアは最も生産的な時期を過ごした。天文学者フリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセルと友人となり、またラトケ嚢の発見者マルティン・ラトケや、のちに彼が立派な訃報を捧げたアレクサンダー・フォン・フンボルト等の著名な自然科学者と交流した[2]。1819年にケーニヒスベルク出身のオーギュスト・フォン・メデム (Auguste von Medem) († 1864年)と結婚し、6人の子供を授かった。同じ年にベーアは准教授に任命され、2年後にケーニヒスベルクの博物学者カール・ゴットフリート・ハーゲン(英語版)から動物学、1826年には解剖学の講座をそれぞれ引き継いだ。
発生学の研究かつてサンクトペテルブルクのネヴァ川の畔にあったアカデミー本部老齢のベーア、ユリー・ヴィルヘルミーネ・ハーゲン・シュヴァルツ(英語版)による肖像画 1867年

主にキャリアのはじめ数年間で発生学において注力した研究として以下がある。

哺乳類の卵細胞を発見(1827年)

胚葉の概念に基づいた比較発生学の確立

脊椎動物の基本的な構造としての脊索の同定

反復説の体系的な批判

ベーアは、ケーニヒスベルク発生学の研究を始め、1827年に哺乳類、なかでも特にヒトの卵細胞を捉えた。(Von einer Eizelle kann erst nach der Formulierung der Zellentheorie 1838/39 die Rede sein.) このベーアの研究の成功で、長年にわたる「哺乳類の卵細胞」の探求は完了した。彼は同じ年に、この重要な発見についてサンクトペテルブルク科学アカデミーへ送ったラテン語で書かれた手紙の中で記し(『De ovi mammalium et hominis genesi』ライプチヒ1827)また、1828年にドイツの論文(Commentar, in Heusingers Zeitschrift fur organische Physik)でも報告している。1826年、初めてSpermatozoon精子(ギリシャ語で精液中の生物)の用語を使用した。1828年、ベーアは初めて脊椎動物の共通の特徴として脊索をみいだした: 「この一続きの構造は、胚における最初の一部をその周囲に形成する軸だけでなく、体全体すべての主要な構成の目盛りとなる」 (so Baer 1828) [3]。これは、ヒトの系統群の関係をヤツメウナギにまで拡大することを意味する大事な概念である。 ベーアは発生学的研究で2巻にわたる研究論文『Uber Entwickelungsgeschichte der Thiere』(1828/1837)を発表し、 1876年の英国における訃報では19世紀で最も重要な生物学の著作だと記された[4]。 ベーアは、胚発生における特徴の増加を、哺乳動物と鳥類に加えて、さらに爬虫類、両生動物、魚類および無脊椎動物で示した (ベーアの法則 (発生学)(ドイツ語版)) (Baer-Regel)。脊椎動物の胚に関しての特性を、最初に鳥、ひよこ鳥、そして最後に飼い鶏で示した。特徴の増加のこの法則は、ローレンツ・オーケンヨハン・フリードリヒ・メッケルその他多数が示した反復説の説明とは対照的である。異なる動物群の間の発生段階に対応し、始めから脊椎動物は、脊椎(すなわち脊索の登場)として出現する。たとえば、虫や軟体動物等は決して脊椎動物として示され無い。ベーアはこの反復説を激しく批判し(特に『発生史』第5巻 5. Scholion der Entwicklungsgeschichte, 1. Bd.)、後にエルンスト・ヘッケルによって生物遺伝の基本法則としてさらに発展させることになる。
アカデミー会員ドルパート (現在のタルトゥ) 1866年

サンクトペテルブルク科学アカデミーサンクトペテルブルク大学に勤めていた友人だった発生学者クリスティアン・パンダーの後継として1834年にロシアへ赴いた。1834年から1846年まで動物学者として、1846年から1862年まで解剖学者や生理学者としてそれぞれ勤務した。ベーアは長い間、アカデミーの中心人物であった[5]


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