カールリス・ウルマニス
ラトビア共和国首相
任期
1918年11月19日 ? 1921年6月18日
大統領ヤーニス・チャクステ
前任者初代
後任者Zigfr?ds Anna Meierovics
カールリス・アウグスツ・ヴィルヘルムス・ウルマニス(K?rlis Augusts Vilhelms Ulmanis,1877年9月4日 - 1942年9月20日)は、ラトビア共和国の政治家。ラトビアが独立国として存在した1918年11月から1940年6月にかけて、独裁者としての絶大な影響力を発揮した。ウルマニスの治世については、ラトビア国内においても未だに賛否が分かれている。 富農の家に生まれ、スイス連邦工科大学チューリッヒ校とライプツィヒ大学にて農学を学んだ。ラトビアに戻ってからは記者、教師、そして農場の管理人として働いた。1905年の革命に参加し、プスコフにおいて短期間投獄された。ロシア帝国当局によるさらなる処罰を避けるため、程なくしてウルマニスはラトビアから亡命した。亡命していた間、ウルマニスはアメリカ合衆国のネブラスカ大学リンカーン校にて農学を修め、科学の博士号を取得した。ごく短期間同学にて講師を務めたのち、ヒューストン、テキサス州にて事業を買収し経営にあたった[1]。 1913年、ニコライ2世が政治犯に大赦を与えたとの報に接したウルマニスは8年ぶりにラトビアに帰還した。しかし翌年には第一次世界大戦が勃発し、クールラント県も部分的にドイツ軍の占領下に置かれた。 第一次世界大戦も終盤にさしかかった頃、ウルマニスは政党「ラトビア農民連合」を組織した。農民連合はたちまちラトビアを二分する大政党へと成長し、サエイマ(国会)の創設に深く関与した。1918年11月18日、サエイマはウルマニスを初代首相としてラトビア共和国の独立を宣言した。1919年から1920年にかけての独立戦争に勝利したのちに制憲協議会が開催され、ラトビアは議会共和制を確立した。ウルマニスは1918年から1934年の間に組織された内閣にて数次にわたり首相を務めた。 1934年5月15日深夜、首相の地位にあったウルマニスは陸軍大臣ヤーニス・バルオディス(J?nis Balodis)の協力を得てラトビア共和国に戦時体制を宣言し、すべての政党を解散させ、サエイマの機能を停止した。ウルマニスはサエイマから独立した行政権による権威主義体制を確立し、次いで自らを大統領に任じた。ウルマニスに忠誠を誓う国境警備隊と陸軍が無血のうちに中央省庁と放送局、そして輸送機関を掌握した。国会議員をはじめとする2000名の社会民主主義者が最初に逮捕され、次いで雷十字(P?rkonkrusts)党[2] といった極右、あるいは極左の活動家、そして首長やクーデターに抵抗した陸軍士官が逮捕された。 リエパーヤ県カロスタに設営された臨時刑務所にはあわせて369名の社会民主主義者、95名の雷十字党員、ナチ党を支持するバルト・ドイツ人活動家、そして数えるばかりの野党議員が収容された。ブルノ・カルニンシュ(Bruno Kalni??)をはじめとする有力な社会民主主義者が内乱予備罪にて訴追されて以降、段階的な収容者らの釈放が開始された[3]。ただし、雷十字党の党首グスタヴス・ツェルミンシュ クーデターの時点で大統領の地位にあったアルベルツ・クヴィエスィス(Alberts Kviesis)はクーデターに協力し、1936年4月11日までの任期をまっとうした後ウルマニスに大統領の座を譲った。ただし、この政権委譲は違憲であったと考えられている。議会の停止に伴って、立法権は内閣に委ねられた。 ウルマニスによる統治は、他の欧州諸国における独裁制とはその性格を異にしていた。ウルマニスは、他の独裁制諸国において見られた支配政党や傀儡の国会、そして新しいイデオロギーの建設を試みなかった。それはすぐれて個人的であり、ウルマニスがラトビアにとって必要と信ずることを忠実に実行する家父長的な権威主義であった。すべての政治的活動は非合法化され、文化的、あるいは経済的な活動はムッソリーニ的なコーポラティズムに基づいて組織化され、国家の指導の下におかれた。他の独裁体制と共通していた点は、コーポラティズムの導入に伴って職業ごとに組合が組織されたことであった。 ウルマニス自身の農民連合も含めて、政党は例外なく非合法化された。ラトビア共和国憲法は部分的に停止され、自由権はいくつかの制約を加えられた。政党をはじめとする組織が経営していた新聞は廃刊され、あらゆる出版活動にはAlfr?ds B?rzi??が大臣を務める内務省の検閲が要求された。一方で、陸軍と国境警備隊には多くの特権が認められた。ウルマニス体制の正統性は、独立戦争を通じて築かれた神話的なカリスマ性に支えられていた。 ウルマニスは農民や保守的なラトビア人から強い支持を得ていたと信じられているが、この点については議論の余地がある。1934年のクーデターの直前にあたる1931年の時点において、ウルマニスの党はサエイマの選挙において12.2%の支持しか得られていなかった。1922年の制憲協議会の時点から一貫して下降傾向にあり、最低値を記録したところであった。
幼少期から青年時代
独立ラトビアの政治家として
1934年5月15日のクーデター
権威主義体制
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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