カールハインツ・シュトックハウゼン
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カールハインツ・シュトックハウゼン
Karlheinz Stockhausen
2004年撮影
基本情報
生誕1928年8月22日
ドイツ国、メトラート(ドイツ語版、英語版)
死没 (2007-12-05) 2007年12月5日(79歳没)
ドイツ、キュルテン
ジャンル現代音楽
職業作曲家
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カールハインツ・シュトックハウゼン(Karlheinz Stockhausen、1928年8月22日 - 2007年12月5日)は、ドイツ現代音楽作曲家
生涯
幼少期

ケルン郊外のメトラート(ドイツ語版、英語版)村で生まれる[1]。父親ジーモンは小学校の教師で、母親ゲルトルートは農家の出身であった[1]。母親は、1932年に精神を病んで入院し、またその数ヶ月後には弟のヘルマン=ヨーゼフがわずか1歳で夭逝するなど身内の不幸が続いた[1]。1935年には引っ越した先のアルテンベルクの教会に魅了され、1938年にはアルテンベルク教会の聖餐会に参加するなど、カソリック信仰を強めた[1]。同年、父親のジーモンはルツィアという女性と再婚するも、カールハインツとルツィアの関係は冷え切ったものであった[2]

1941年にゲルトルートが没し、翌年には教員養成学校の寄宿生としてクサンテンで暮らすようになる[3]。1944年には同級生の多くが徴兵されたものの、他よりも若い年齢で入学していたことなどから、徴兵は免れ、代わりに野戦病院で働くようになった[3]。ジーモンは第二次世界大戦末期の1945年4月に東部戦線に出征し戦死した[4]
戦後からケルン音楽大学、ダルムシュタット時代

両親が戦争の過程で没したシュトックハウゼンは、戦災孤児となり、農場やダンスのピアノ伴奏、ピアニストとして糊口を凌いだ[4]1947年4月、シュトックハウゼンはケルン音楽大学の入学試験を受け、音楽教育コースでは不合格になったものの、ピアノ・コースで合格する[4]。またその後、駐車場の管理人や警備員などのアルバイトを続け、翌1948年には音楽教育コースにも合格した[5]。1950年には大学のカリキュラムの過程で、当時、シュトックハウゼンが心酔していたヒンデミットの影響を受けた新古典主義的な「ドリスのための合唱曲」や、十二音技法を用いた「ソナチネ」などの作品が作曲された[5]

1951年、シュトックハウゼンはダルムシュタット夏季現代音楽講習会に初めて参加し、シェーンベルクの「黄金の仔牛の踊り」に失望し、オリヴィエ・メシアンの「音価と強度のエチュード」に強い衝撃を受けた[6]。また同じ講習会を受けていたベルギーの作曲家、カレル・フイヴェールツと知り合い、彼からシェーンベルクやウェーベルンなどの、戦時中は「退廃音楽」として忘れられていった新ウィーン楽派の作曲法を教わった[6]
パリ国立高等音楽院時代から1970年代

メシアンの「音価と強度のエチュード」の衝撃から、シュトックハウゼンはフランスに移り、パリ国立高等音楽院の入学試験を受けるも、ダリウス・ミヨーのクラスの外国人枠に、同じく受験していた別宮貞雄が合格し、シュトックハウゼンは不合格となってしまった[7]。しかしメシアンの楽曲分析クラスへの聴講は認められ、1年ほどメシアンのクラスで学んだ[7]。その後、「群の音楽」や「モメント形式」などの新しい概念を次々と考案し、また、世界で初めての電子音楽を作曲。「少年の歌」や「グルッペン」、「コンタクテ」、「モメンテ」などの代表作を作曲して、第二次世界大戦後の前衛音楽の時代において、フランスのピエール・ブーレーズ、イタリアのルイジ・ノーノらと共にミュージック・セリエルの主導的な役割を担った。

60年代後半以降は確定的な記譜法を離れ、自身の過去作品を出発点としてそれを次々と変容してゆく「プロツェッシオーン」や短波ラジオが受信した音形を変容してゆく「クルツヴェレン」などを作曲。更には、演奏の方向性がテキストの形で提示された「直観音楽」を提唱する。アロイス・コンタルスキーヨハネス・フリッチュらの演奏家とアンサンブルを結成し、これらの音楽を演奏した。

70年代には「フォルメル技法」を掲げて再び確定的な記譜法に回帰しながら、「祈り」や「秋の音楽」など、音楽のみならず、身振りや手振りなどの身体動作による視覚的なアプローチも始まった[8]。1975年には、それまで自作品の複雑で特殊な記譜法などの使用などの楽譜制作の困難から、それまで出版を担当していたユニヴァーサル社から、自身の作品を出版するための出版社、シュトックハウゼン出版を設立させる[9]
「光」、「クラング」の制作詳細は「光 (シュトックハウゼン)」および「クラング (シュトックハウゼン)」を参照シュトックハウゼンの墓の表側シュトックハウゼンの墓の裏側


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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