カーリエ博物館
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カーリエ博物館外観

カーリエ博物館(Kariye Muzesi)は、イスタンブール旧市街の北西、テオドシウスの城壁と幹線道路が交わるエディルネ門の近くにある博物館である。建物自体は、東ローマ帝国の時代であった11世紀正教会修道院の付属教会堂として建設されたもので、14世紀まで間欠的に増改築が繰り返された。オスマン帝国の時代になるとモスクに改装され、名称もカーリエ・ジャーミーと改められたが、トルコ共和国によってその美術的価値が認められ、無宗教の博物館となった。しかし、2020年8月21日、エルドアン大統領は大統領令を以て同博物館を再びモスクとする旨の発表を行った。

正教会の教会堂としては、同じイスタンブールにあるアヤソフィアなどと比べると、小規模で雑な印象の建築であるが、14世紀に作成され、しばしばビザンティン美術の最高傑作と評価されるモザイクフレスコ画が残されており、イスタンブールでも有名な観光スポットである。イスタンブール歴史地域として世界遺産にも登録されている。
歴史

カーリエ博物館は正教会修道院の付属聖堂であり、本来の名称はコーラ修道院付属ソーテール(救世主)聖堂(? ?κκλησ?α του ?γιου Σωτ?ρο? ?ν τ? Χ?ρ?)である。この建物を擁したコーラ修道院の起原は古く、設立は6世紀から7世紀と考えられる。コーラとはギリシア語で田舎ないしは郊外を意味しており、その名の通り、修道院の敷地はコンスタンティノポリスの北西、中心部から遠い第六丘陵に位置した。さらに、コーラという言葉は、正教会(キリスト教)において藉身(受肉)の神秘を指す象徴的な意味をも持っている。旧・中央聖堂

現在残っている聖堂の建設過程は複雑で、始まりは12世紀初期にアレクシオス1世コムネノスの子イサキオス・コムネノスによって建設された建物が母体になっている。身廊アプスヴォールトの一部はこの時のものがそのまま残っていると考えられる。ドームは直径7mで、この時代の平面形式は円蓋式バシリカに近いものであった。この形態の教会堂は、暗黒時代にあたる時期のビザンティン建築に特有のものであったため、考古学的調査で明らかになるまでは7世紀頃の創建と考えられていた。

14世紀前期の増改築は、政治家学者のテオドロス・メトキテスによって行われた。1321年3月に完成したことが明らかなので、1316年から1321年にかけてドームの改築、身廊の周囲に内外2つのナルテクスと南側の墓廟礼拝堂(パレクリシオン)の設置が成され、内陣左右の小礼拝堂が付加された。その結果、建物はかなり不規則な形状となり、軸線はずれ、ナルテクスは大きさの異なる石造ベイによって分節されている。このように、建築としての質はよくないが、今日見ることのできるフレスコ画は、このときに画かれたものである。

オスマン帝国時代になるとモスク(イスラム教礼拝堂)に転用され、カーリエ・ジャーミーと命名された。聖堂からモスクへと改修されるにあたり、聖堂内部の装飾は麻布と漆喰によって塗り込められ、内陣にはミフラーブが作られた。さらに、ミナーレ(ミナレット)が追加され、ドームは漆喰を上塗りした木造のものに作り替えられた。19世紀末には、アーチが連続していた西側および南側正面の軒部分は水平に改装されている。

1948年から1958年にかけて、ポール・アンダーウッド率いるアメリカのビザンティン研究所によって上塗りが除去され、ビザンティン美術末期の装飾が蘇った。1958年、カーリエ・ジャーミイは無宗教の博物館に変更され、今日、一般に公開されている。
装飾聖母子像

カーリエ美術館の建物は3つの領域に分かれている。玄関のような役割のナルテクス(内ナルテクスと外ナルテクスで構成される)、聖堂の内陣、そして墓廟礼拝堂(パレクレシオン)である。聖堂には6つのドーム(内ナルテクスに2、パレクレシオンに1、内陣に3つ)が存在する。ビザンティン美術の傑作とされるモザイクは180以上の場面が描かれているが、主に7つの主題にわかれる。フレスコ画は80以上の場面を構成し、3つの群をなす。
外ナルテクス

外ナルテクス(エクソナルテクス)は聖堂の玄関にあたる、奥行4m、幅23mの空間である。南端はパレクレシオンへの入り口部分にあたり、全体としてLの文字を横にしたような平面となっている。外ナルテクスから内ナルテクスにいたる正面入り口上部には、『パントクラトール』が描かれ、「命あるもののコーラ」との銘文が刻まれる。この部分の装飾は、以下のとおりハリストス(キリスト)の生涯が描かれている。


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