ハーランド・デイヴィッド・サンダーズ
Harland David Sanders
1974年頃に撮影
生誕Harland David Sanders
(1890-09-09) 1890年9月9日
アメリカ合衆国インディアナ州ヘンリービル
ハーランド・デイヴィッド・サンダーズ(Harland David Sanders、1890年9月9日 - 1980年12月16日)は、アメリカ合衆国の実業家。ケンタッキーフライドチキン(KFC)の創業者。愛称のカーネル・サンダース(Colonel Sanders)で知られている。
青年期に40種に上る職を転々とし、30代後半から経営を始めた最初のガソリンスタンドは倒産、40歳から始めた2度目のガソリンスタンドにカフェを併設したアイデアが当たり、後のケンタッキー・フライドチキンの原型となった。
「カーネル」(Colonel)は名前でも、軍隊の階級である大佐でもなく、ケンタッキー州に貢献した人に与えられる「ケンタッキー・カーネル」という名誉称号(名誉大佐)である。日本では「カーネルおじさん」[1]「ケンタッキーおじさん」の愛称が定着している。
生涯「ケンタッキーフライドチキンの歴史」および「KFCコーポレーション」も参照
生い立ち1914年の姿
「カーネル・サンダース」ことハーランド・デイヴィッド・サンダーズ(以下、サンダース)は、1890年にインディアナ州クラーク郡のヘンリービル(英語版)で生まれた。ヘンリービルは、ケンタッキー州最大の都市ルイビルからオハイオ川を越え、北へ30kmほど離れた町である。父親はサンダースが6歳のときに亡くなり[2]、母親が工場で働きながらサンダースとその弟妹を育てた[3]。サンダースは10歳から農場に働きに出ている[3][4]。学校は14歳で辞め、農場の手伝いや市電の車掌として働いた[5][4]。
1906年、16歳のときに年齢を詐称して陸軍に入隊し、キューバで勤務した。彼の軍隊における経歴は一兵卒として終わっている。1907年に除隊した後は、青年期にかけて様々な職業を渡り歩き、鉄道の機関車修理工、ボイラー係、機関助手、保線区員、保険外交員、フェリーボート、タイヤのセールスなど40種に上る職を転々とした[5]。30代後半にはケンタッキー州ニコラスビルでガソリンスタンドを経営するようになるが、大恐慌のあおりを受けて倒産するなど、多くの波瀾を経験した[3]。
「サンダース・カフェ」とフライドチキン(英語版)(正確にはコービンの北隣で、ノックス郡とローレル郡にまたがるノースコービン (North Corbin, Kentucky) )に移り住み、ガソリンスタンドの経営を始めた[2]。道を尋ねに来た程度でも誠意のある接客をしていた[6]。
1930年6月、ガソリンスタンドを利用した客から言われた一言から、ガソリンスタンドの一角に物置を改造した6席のレストラン・コーナー「サンダース・カフェ」を始める[3][7]。サンダースはガソリンスタンドの支配人と調理師とレジ係を兼ねた[4]。州の南北を貫く幹線道路である国道25号線(英語版)に面した店は繁盛し、規模を拡大した[2]。1935年には「州の料理への貢献」が評価されて[4]、ケンタッキー州のルビー・ラフーン知事から「ケンタッキー・カーネル」の名誉称号を与えられた[3][1][注釈 1]。
「サンダース・カフェ」は、1937年にはモーテルを併設した142席のレストランに成長した[4]。1939年には店舗が火災に見舞われるなどの災難もあったが[4]、1941年にはコービンに147人収容のレストランを再建した[5]。現在この店舗は博物館 (Harland Sanders Cafe and Museum) となり、アメリカ合衆国国家歴史登録財となっている。
「サンダース・カフェ」の目玉商品がフライドチキンであった[6]。1939年に導入された圧力釜を用いた「オリジナル・フライドチキン」の製法は、以後80年以上にわたって「オリジナル・レシピ」として引き継がれている[注釈 2]。
コービンの「サンダース・カフェ」(2006年)
KFCのフランチャイズ化「サンダース・カフェ」に掲げられた旧ロゴマーク。サンダースは文字通りKFCの「顔」となった。
サンダースが、各地のレストランの経営者や従業員にフライドチキンの調理法を教えてチキン一羽につき5セントで売るという新しいビジネスモデル(フランチャイズ)を始めたのは、1952年である[4][6]。