カーディシーヤの戦い
戦争:イスラームの大征服
年月日:636年11月16-19日
場所:カーディシーヤ
カーディシーヤの戦い(アラビア語: ????? ?????????;)は、636年にカーディシーヤ(英語版)(現在のイラク・ナジャフ市の東)で、正統カリフ時代のイスラーム勢力(アラブ軍)とサーサーン朝との間に起きた戦い。この戦いに大勝したイスラーム勢力はイラクを掌握し、その後のペルシア征服につながった。続くニハーヴァンドの戦い(641年)で敗れたサーサーン朝は、滅亡した。 預言者ムハンマドの時代、ペルシアはサーサーン朝の皇帝ホスロー2世の統治下にあった。ホスロー2世は、妻の父である東ローマ皇帝マウリキウスが軍の反乱で殺されると、仇討ちを主張して東ローマ・サーサーン戦争 (602年-628年)を引き起こした。サーサーン朝軍はシリア、エジプト、アナトリアを占領し、イエス・キリストが架けられたとされる聖十字架を持ち去った[3]。東ローマ皇帝ヘラクレイオスは610年にフォカスの後を継ぐと軍を起こし、失地回復を果たした。ヘラクレイオスがニネヴェの戦い (627年)でサーサーン朝軍を破りクテシフォン近くまで進軍すると、ホスロー2世は息子のカワード2世の反乱に遭い処刑された。テュルクの軍が、ペルシア北部に大挙して侵入してきていたこともあり、カワード2世は東ローマ帝国と和平を結んで占領地をすべて返還した[3]。聖十字架と占領地の返還を決めた条約を締結すると、ヘラクレイオスは軍を引いた。 ホスロー2世は628年に宮殿で息子のカワード2世に殺害された。カワード2世は18人の兄弟も殺したが、即位数カ月後に疫病で急死し、内乱が勃発した。カワード2世の7歳の息子のアルダシール3世が擁立されたが、1年半後に配下の将軍シャフルバラーズに殺害された。 629年、アルメニア王国との戦いでシャフルバラーズは敗死し、ホスロー2世の娘のボーラーンが後を継いだ。ボーラーンは、司法制度改革やインフラの再整備、減税、貨幣の鋳造を行い、ビザンティン帝国と友好的関係を結んで国内に安定をもたらそうとした。また、ペルシア軍の最高司令官にロスタム・ファルロフザード 預言者ムハンマドの死後、アブー・バクルはリッダ戦争
背景
東ローマとサーサーンの関係
サーサーン朝の内紛詳細は「サーサーン内乱 (628年‐632年)」を参照
正統カリフ勢力の勃興とイラク侵攻
ムスリム軍がイラクを制圧すると東ローマ軍がシリアとパレスチナに攻め込んだため、ハーリドは麾下の軍の半分を率いてイラクから転戦した。直後の634年にカリフのアブ?・バクルが没し、ウマルが第2代正統カリフとなった。ハーリド軍の侵攻後、サーサーン朝の首都クテシフォンは混乱の極みにあったが、サーサーン朝軍はひとたび態勢を立て直すと、軍勢を集中して反撃を開始した。ムスリム軍はイラクを維持するには寡兵だったため撤退してアル・ヒラも放棄し、アラビア砂漠近くまで退いた[5]。ムスリム軍は一度はメディナからの増援でサーサーン朝軍をクーファ近郊で破るが、サーサーン朝軍の反撃でユーフラテス河畔で大敗を喫し、多大な損害を被って撤退した。 ハーリドの転戦後、ユーフラテス、チグリスに挟まれたメソポタミアでは、サーサーン朝とムスリム軍が一進一退を繰り返した。サーサーン朝のヤズデギルド3世は国内の権力基盤を強固なものにすると、ムスリム勢力への大反攻を企て、635年に東ローマ皇帝ヘラクレイオスとの関係強化を模索した。
サーサーン朝の反撃