カーチス・ルメイ
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カーチス・ルメイ
Curtis LeMay

生誕 (1906-11-15) 1906年11月15日
アメリカ合衆国 オハイオ州コロンバス
死没 (1990-10-01) 1990年10月1日(83歳没)
アメリカ合衆国 カリフォルニア州マーチ空軍基地
所属組織 アメリカ陸軍
アメリカ空軍
軍歴1929年10月 - 1965年2月
最終階級 空軍大将
出身校オハイオ州立大学中退
除隊後副大統領候補
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カーチス・エマーソン・ルメイ(英語: Curtis Emerson LeMay、カーティス・ルメイ[1]1906年11月15日 - 1990年10月1日)は、アメリカ合衆国陸軍軍人空軍軍人。最終階級は空軍大将第二次世界大戦中は第20空軍隷下の第21爆撃集団司令官に赴任し、東京大空襲を指揮。1957年7月から1965年2月まで第5代空軍参謀総長を務め、在任中はキューバ危機の間にキューバのミサイルサイトの爆撃を呼びかけ、ベトナム戦争の間に持続的な北ベトナム爆撃キャンペーンを求めた。
経歴

1906年11月15日にオハイオ州コロンバスにて、放浪者の父と教師の母の間に6人兄弟の長男として誕生した。父親の先祖はフランス人である。オハイオ州立大学在学中に陸軍予備役将校訓練課程(ROTC)を修了し、その後は大学を中退して国境警備隊に入る。

1929年10月12日に陸軍航空軍予備役で少尉を拝命し、1930年2月1日に正規任官された。ミシガン州セルフリッジフィールドの第27戦闘飛行隊に着任し、1935年3月12日に中尉となり、1937年8月に爆撃機に転科するまでは戦闘機パイロットとして任務に就いた。1938年3月に南アメリカへ向かうB-17型機初の編隊飛行に参加した[2]。1940年1月26日に大尉、1941年3月21日に少佐に昇進する。
第二次世界大戦
ヨーロッパ戦線

1941年12月の真珠湾攻撃の後にアメリカが第二次世界大戦へ参戦すると、1942年1月23日に中佐になり、ルメイは南大西洋・アフリカ・北大西洋・イギリスへの空路を開いた。6月17日に大佐に昇進する。10月に第305爆撃隊を組織・訓練し、ヨーロッパで戦闘する部隊を指導した。ヨーロッパの作戦でB-17の爆撃隊によるフォーメーションや爆撃技術を改良する。これらの基本的な手順や技術は後に太平洋で活躍するB-29にも適用された[2]1942年9月から1943年5月までイギリスにおいて第8爆撃軍団傘下で陸軍航空軍大佐として同隊の指揮を執り、のちに第4爆撃航空団を率い、1943年9月に同航空団が第3航空師団に再編成されたときにはドイツレーゲンスブルク爆撃の功績により9月28日に准将に昇進し、その最初の司令となって1944年3月3日には少将に昇進した。

ドイツ本土への爆撃に赴く搭乗員に対し「君が爆弾を投下し、そのことで何かの思いに責め苛まれたとしよう。そんなときはきっと、何トンもの瓦礫がベッドに眠る子供の上に崩れてきたとか、身体中を炎に包まれ『ママ、ママ』と泣き叫ぶ3歳の少女の悲しい視線を、一瞬思い浮かべてしまっているに違いない。正気を保ち、国家が君に希望する任務を全うしたいのなら、そんなものは忘れることだ」と言い聞かせたこともある[3]

「鉄のロバ」(頑固者)と呼ばれ、訓練が実戦で生死を分けると信じており、作戦と作戦の間に部下を徹底的にしごき、寡黙で鬼のように厳しかったが、部下からは絶大な信頼を寄せられていた。

統計学などを駆使して効率的な爆撃作戦の研究をしたハーバード大学ロバート・マクナマラ助教授は、第二次世界大戦時の爆撃任務における高い任務中止率に関する報告書に「指揮官の一人にカーティス・ルメイというB-24部隊を指揮する大佐がいた。彼は私が戦中に出会った者の中で最も優れた戦闘指揮官だった。 しかしルメイは異常に好戦的で、多くの人が残忍だとさえ思った。ルメイは爆撃機の空爆任務の中断率に関する調査で、高い中止率の原因は隊員が撃墜を恐れてこじつけの理由で任務放棄しているに過ぎないと結論づけたマクナマラの報告書を受けた後、命令を出した。『これから全ての任務において自分が先陣の爆撃機に搭乗する。今後は出撃した全ての爆撃機が攻撃目標まで到達する。これを成し遂げないものは全員軍法会議にかけ処分する』。任務中止率は瞬く間に低下した。彼はそういう類の指揮官だった。」と記している[4]
対日戦空襲を受ける東京市街(1945年5月25日)

1944年にルメイはポール・ティベッツたちからB-29の操縦法を学んだ課程の終わりに「この飛行機で戦争に勝てるぞ」と予言している[5]

1944年8月20日にイギリス領インド帝国のカラグプル(英語版)に司令部を置く第20爆撃集団司令官に赴任し、同じ連合国のイギリスや中華民国と共同で行う対日作戦として、中華民国の成都に設けられた基地からの八幡製鉄所爆撃に携わった。ルメイは中国北部を実効支配していた毛沢東と交渉し、物資と引き換えに中国北部に気象観測所を設置させて定期的に情報提供させた。この情報は中国からの爆撃で役に立ち、ルメイは後にマリアナに移ってからも毛沢東から情報を得ていた[6]?介石の実効支配する中国南部と同じようなB-29の飛行場の建設も毛沢東はルメイに提案していた[7]

ルメイは精密爆撃の技術改良に力を入れ飛行機工場を目標にした昼間精密爆撃で成果を上げていった。1944年10月25日に大村第21海軍航空廠を目視で爆撃させその大半を破壊した。第21爆撃集団司令ヘイウッド・ハンセルがよくて14パーセントの精度だったのに対し、ルメイは41パーセントを目標300メートル以内の高精度で投下している。またルメイはハンセルと違い兵站上の難問にも対処しなければならなかったが、空襲成果を上回って全く言い訳をせず、延期も無く問題を解決していった[8][9]

第20空軍隷下の第21爆撃集団司令官に赴任した。アメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・アーノルドはルメイが中国から行った高い精度の精密爆撃の腕を買い、1944年11月13日の時点でルメイの異動を検討していた[9]。1944年12月9日、ルメイに対して「B-29ならどんな飛行機も成し遂げられなかったすばらしい爆撃を遂行できると思っていたがあなたこそそれを実証できる人間だ」と手紙を送った。アーノルドは中国からの爆撃をやめさせてルメイをマリアナに合流させると、1945年1月20日にルメイを司令官に任命した[注 1]

3月10日に東京大空襲を指揮し、ルメイの独創性は進入高度の変更にあった。従来は高度8500メートルから9500メートルの昼間爆撃を行っていたが、高度1500メートルから3000メートルに変更した。理由はまず、ジェット気流により機体が進まなかったり正確に狙っても爆弾が流されたりする影響を避けることにより、エンジン負荷軽減で燃料を節約し多くの爆弾を積載できる爆撃の命中精度が上げられるなどの効果が期待できる。また、低空であれば雲の影響をあまり受けずに地上を視認できるため、作戦計画への天候の影響の減衰・命中精度の上昇・目標地区への着弾密度の上昇が期待できる。しかし低空では敵の迎撃機・対空砲があるため夜間爆撃にした。また機銃・弾薬・機銃手をB-29から取り除き一機当たり爆弾を200キロ増やせるようにした。また飛行法を低空単直列にし先頭の投下誘導機の着弾火炎から後続機が目標地点を把握しやすいようにした。ルメイの変更に乗員は恐怖したが、結果的にB-29の損害は軽微であった[12]。誘導機を務めたトム・パワー参謀長は「まるで大草原の野火のように燃え広がっている。


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