カーク・ダグラス
[Wikipedia|▼Menu]

カーク・ダグラス
Kirk Douglas
1950年頃
別名義Issur Danielovitch(出生名)
Izzy Demsky
Isador Demsky
生年月日 (1916-12-09) 1916年12月9日
没年月日 (2020-02-05) 2020年2月5日(103歳没)
出生地 アメリカ合衆国 ニューヨーク州アムステルダム
職業俳優、映画製作者
活動期間1942年 - 2008年
配偶者ダイアナ・ダグラス(英語版)(1943年 - 1951年、離婚)
アン・バイデンス(英語版)(1954年 - 2020年)
著名な家族長男:マイケル・ダグラス
次男:ジョエル・ダグラス
三男:ピーター・ダグラス
四男:エリック・ダグラス
主な作品
チャンピオン
海底二万哩
炎の人ゴッホ
OK牧場の決斗
突撃
ヴァイキング
スパルタカス
テレマークの要塞
パリは燃えているか
ファイナル・カウントダウン

 受賞
アカデミー賞
名誉賞
1996年 長年の功績に対して
ベルリン国際映画祭
名誉金熊賞
2001年 長年の功績に対して
ニューヨーク映画批評家協会賞
主演男優賞
1956年炎の人ゴッホ
AFI賞
生涯功労賞
1991年 長年の功績に対して
ゴールデングローブ賞
主演男優賞(ドラマ部門)
1956年『炎の人ゴッホ』
セシル・B・デミル賞
1967年 生涯功労賞
セザール賞
名誉賞
1980年 長年の功績に対して
全米映画俳優組合賞
生涯功労賞
1998年 長年の功績に対して
その他の賞

テンプレートを表示

カーク・ダグラス(Kirk Douglas, 1916年12月9日 - 2020年2月5日)は、アメリカ合衆国俳優映画プロデューサー
来歴
生い立ち

帝政ロシア(現:ベラルーシ共和国ホメリからの移民[1][2]、ダニエロヴィッチ夫妻の子としてニューヨーク州アムステルダムに生まれた。夫妻は先に渡米していた兄が身元引受人となって移住した際にその兄に倣って“デムスキー”という苗字を名乗っており[3]、カークも“イジー・デムスキー”として育つ。貧民街に暮らし、家計を助けるために少年時代は新聞配達から露天商、庭師など多くの職を転々としつつ、学業に勤しんだ。学費を借金で賄いセントローレンス大学へ進み、その返済のために件のアルバイト生活の他にボクシングの試合に臨み、ファイトマネーを稼いだりナイトクラブや街頭で歌って生計を立てる。

高校の時に、自分の夢は役者になることだということを改めて認識し、その夢を叶えるべくアメリカン・アカデミー・オブ・ドラマティック・アーツへ入学し、その才能を開花させ、特別奨学生ともなった。ローレン・バコールはこの時の同窓生。1941年に徴兵されそのまま第二次世界大戦中は海軍に従軍したが1944年に負傷のため除隊している。徴兵時に戸籍上の本名を「カーク・ダグラス」と改めた[4]
キャリア映画『ザ・ビッグ・ツリー』より
1952年

1941年、卒業公演として行われた『春よ再び』(原題: Spring Again)で歌うメッセンジャーボーイを演じブロードウェイ・デビューを果たした。

除隊後、ニューヨークでラジオドラマを中心とする仕事に就き、舞台へも出演していたが、ローレン・バコールに薦められて1946年、映画『呪いの血』(原題: The Strange Love of Martha Ivers)で銀幕のデビューを果たす。このことが転機となり、1949年にブロードウェイでもチェーホフの『三人姉妹』でアンドレイ役での出演を果たしたが、ダグラスはその活躍の場をハリウッドへ移す。後年の硬派なイメージは8本目の出演作品『チャンピオン』以降であり、当初は内向的な性格俳優というようなイメージが強い。『チャンピオン』はアカデミー編集賞とゴールデングローブ撮影賞を受賞し、カーク本人もアカデミー主演男優賞にノミネートされた。そして、西部劇映画『死の砂塵』(原題: Along the Great Divide)へ出演しスターダムへと登りつめた。

1947年には税金対策の為に母の名に因んだ独立プロダクション「ブライナカンパニー」を興し本格的な製作参入は1955年の西部劇「赤い砦」である。1956年には同期デビューの親友でもあるバート・ランカスターと協定を結び製作者ハル・B・ウォリスとの契約を有利な方向に進め『OK牧場の決斗』でW主演。1960年には自らが主演・製作総指揮を執って製作費1200万ドルの大作『スパルタカス』を製作、当時赤狩りで排斥され投獄までされていたハリウッドテンの一人、ダルトン・トランボを起用し、正式にクレジット、彼らの実質的復活に手を貸した。シリアスな役柄が似合うイメージの傍ら、『海底二万哩』で見せた軽妙な演技や、創成期のテレビ番組『ジャック・ベニーショー』でのミュージカルパフォーマンス等、多彩なタレント性を持つ。同時期にエージェントだったサム・ノートン(本業は弁護士)によるギャラの搾取が発覚したのは良妻による助言であった。追い討ちをかけるように合衆国国税庁から追徴課税75万ドルの支払いを命じられるが1958年公開の映画『ヴァイキング』のヒットによって全額支払う。

1973年には西部劇映画『明日なき追撃』でメガホンを執りつつ主演をこなしたが、西部劇自体の衰退期にあったこともあって大きな評価は得られなかった。また、同年にはテレビミュージカル版『ジキルとハイド』(作曲:ライオネル・バート)にも主演している。2009年3月、自伝的ワンマンショー『備忘録』(原題: Before I Forget)をカリフォルニア州、カリバーシティのセンターシアターで演じ、この映像記録は2011年1月に公開されている。

2011年1月の時点でマイスペースにブログ[1]を掲載する最高齢のハリウッドスターであり、健脚で、2010年秋にも息子のマイケル・ダグラスをアン夫人と見舞う姿を、パパラッチに撮影されている。2011年2月、第83回アカデミー賞授賞式で助演女優賞のプレゼンターとしてコダックシアターの舞台に立った。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:108 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef