カーカス
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この項目では、音楽バンドについて説明しています。その他の用法については「カーカス (曖昧さ回避)」をご覧ください。

カーカス
Carcass
ドイツ・ハンブルク公演 (2016年8月)
基本情報
別名Disattack' (1985?1987)
出身地 イングランド
マージーサイド州 リヴァプール
ジャンルグラインドコア(初期)[1][2][3]
ゴアグラインド(初期)[4]
デスメタル(中期)[1][3]
メロディックデスメタル(後期)[1][2]
活動期間1985年 - 1995年
2007年 - 現在
レーベルイヤーエイク・レコード
Combat Records
Relativity Records
コロムビア・レコード
トイズファクトリー
ニュークリア・ブラスト
トゥルーパー・エンタテインメント
公式サイトOfficial Carcass (OfficialCarcass) - Facebook

メンバージェフ・ウォーカー (ボーカルベース)
ビル・スティアー (ギター、ボーカル)
ダニエル・ワイルディング (ドラムス)

旧メンバーサンジヴ (ボーカル)
マイケル・アモット (ギター)
カルロ・レガダス (ギター)
ベン・アッシュ (ギター)
ケン・オーウェン (ドラムス)
ダニエル・アーランドソン (ドラムス)
トム・ドレーパー (ギター)

カーカス(CARCASS)は、イングランド出身のエクストリーム・メタルバンド[2]

ハードコア・パンクにルーツを持つ代表的グループの一つ。一度解散したが、2007年から再始動を果たした。日本では「リヴァプールの残虐王」のキャッチコピーで知られ、度々来日している。
概要

初期の音楽性は後のグラインドコア、特にゴアグラインドのシーンで今でも大きな影響力を持ち、またアルバム『ハートワーク』はメロディックデスメタルの先駆けとなった。 ファーストからサードアルバム、再結成後のアルバムの日本盤[注 1]には、それぞれの曲に奇妙な邦題が付けられていることでも知られる[注 2]
来歴
初期 - イヤーエイク時代 (1985年 - 1992年)創設者ビル・スティアー(G) 2008年

1985年リヴァプールで、ミディ(ドラム)、ペク(ボーカル)、ポール(ベース)とビル・スティアー(ギター)の4人によりディスアタック (Disattack') が結成される。当時はディスチャージ に強く影響されたハードコア・パンクをやっていた。その後ディスアタックは解散し、それとは別に結成されたバンドにエレクトロ・ヒッピーズでサポート・ボーカルを務めていたジェフ・ウォーカーがベーシストとして加入、ビルの友達だったケン・オーウェン(別の前身バンドではボーカルだった)がドラムとなる。バンド名をカーカス (Carcass)と改名、音楽性もグラインド・コアに変わる。

1987年に『Flesh Ripping Sonic Torment』と呼ばれるデモを録音し、デモテープをノッティンガムイヤーエイク・レコードに送り、イヤーエイクと契約を結ぶ。このデモではサンジヴという人物がボーカルを担当している。さらに翌年には2番目のデモ『Simphonies of Sickness』を録音、このデモはセカンドアルバムの元になっている。

1988年、イヤーエイクより1stアルバム『腐乱屍臭』(Reek of Putrefaction)がリリースされる。死体のコラージュを使ったジャケットの為、レコードを置かない店もあったが、イギリスのインディーチャートでは高い成績を得る事ができたらしい。またイギリスBBCラジオの人気番組「ピール・セッション」に出演した。

1989年にはコリン・リチャードソンをプロデューサーに迎えた2ndアルバム『疫魔交響曲』 (Symphonies of Sickness)をリリース、このアルバム以降はトイズファクトリーが日本盤を出すようになる。CD版には2ndアルバム『疫魔交響曲』の内容に加え1stアルバム『腐乱屍臭』の曲の一部が収録されていた(海外でも同仕様)。その後1stアルバム『疫魔交響曲』の初CD化に合わせて1996年に1stアルバムの日本盤が発売され、2ndアルバムはボーナストラックが外され『真・疫魔交響曲』と改題された。2ndアルバムリリース後、モービッド・エンジェルナパーム・デス、ボルト・スロワーとのヨーロッパツアー『グラインドクラッシャー・ツアー』も行っている。また「ピール・セッション」への2回目の出演も行った。

以前からライブ時のギターに厚みを持たせるため、二人目のギタリストが必要だと考えていたバンドは、1990年スウェーデンの「カーネイジ」のギタリストだったマイケル・アモットをセカンド・ギタリストとしてカーカスに加入させた。マイケル・アモットは「ナパーム・デス」のオーディションを受けにイギリスに来た際、ビル・スティアーと知り合い、カーカスとのセッションを行ってもいたが、その時はスウェーデンに帰っている[5]。この頃バンドの音楽性はグラインド・コアからデスメタルに変化しつつあったが、マイケル・アモットの加入により、よりデスメタル色が強くなった。また元々バンドが持っていたブルータルなデスメタルの要素にマイケル・アモットの流麗なギターが加わり、後のメロディック・デスメタルの原型が誕生しつつあった。その年のドイツツアーでは「アトロシティー」の前座を務めている。

再度コリン・リチャードソンをプロデューサーに迎えレコーディングを行い、1991年に3rdアルバム『屍体愛好癖』 (Necroticism - Descanting the Insalubrious)のリリースが行われる。コリン・リチャードソンは5thアルバムまでプロデューサーを務めることになる。アルバムの作成の途中、ケン・オーウェンが刑務所に送られるアクシデントが発生した(罪状は不明)。

1992年カテドラルエントゥームド、コンフェッサーとのヨーロッパツアー『ゴッズ・オブ・グラインド・ツアー』を行い、ツアーに合わせてミニアルバム『ツール・オブ・トレード』をリリースした。このツアーの様子は、先のグラインドクラッシャー・ツアーと共に、ビデオ版の『ウェイク・アップ・アンド・スメル・ザ...』で見ることができる。
メジャーデビュー - 解散 (1993年 - 1995年)

1993年、メジャーレーベルのコロムビア・レコードから4thアルバム『ハートワーク』(Heartwork)がリリースされるが、『ハートワーク』のレコーディング終了後にマイケル・アモットが脱退してしまう。マイケル・アモットは既に1970年代風のハードロックに興味を移していて、『ハートワーク』の方向性にも疑問を持っていたらしい。後にマイケル・アモットはスピリチュアル・ベガーズを結成。その後、プロジェクトとして実弟クリストファーと共にアーチ・エネミーを結成した。アルバムリリースに続くツアーのため、元ヴェノムのマイク・ヒッキーがセッションギタリストとしてカーカスに迎えられる。この年のヨーロッパツアーに先立って、「ボディカウント」のイギリスツアーの前座も務めている。

1994年、マイク・ヒッキーに代わって、カルロ・レガダス(元デヴォイド)がカーカスに正式に加入する。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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