カンバーランド砦の戦い
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カンバーランド砦の戦い

カンバーランド砦
戦争:アメリカ独立戦争
年月日:1776年11月10日 - 29日
場所:ノバスコシア、サックビル近く
結果:イギリス軍の勝利
交戦勢力
 アメリカ合衆国大陸軍 グレートブリテン イギリス軍
指揮官
ジョナサン・エディ ジョセフ・ゴーラム[1]
戦力
民兵:400+ [2]民兵:200(「フェンシブル」)[3]
損害
戦死:数名[4]
捕虜:5(1名は負傷で死亡)[5]戦死:13
負傷:未詳
捕虜:56[6]
アメリカ独立戦争
大区分

西部戦線 - 南部戦線 - ボストン方面作戦 - カナダ侵攻作戦 - ニューヨーク・ニュージャージー方面作戦 - サラトガ方面作戦 - フィラデルフィア方面作戦
小区分

レキシントン・コンコード - ボストン - バンカーヒル - グレートブリッジ - ロングアイランド - ホワイト・プレインズ - トレントン - プリンストン - オリスカニー - ベニントン - ブランディワイン - サラトガ - ジャーマンタウン - ホワイトマーシュ - モンマス - ジブラルタル - ロードアイランド - ワックスホー - スプリングフィールド - キャムデン - キングスマウンテン - カウペンス - ギルフォード - ホブカークスヒル - グリーンスプリング - ユートースプリングス - ヨークタウン - ブルーリックス

海戦

アメリカ独立戦争の海軍作戦行動 - バルカー島 - 第1次ウェサン島 - サン・ビセンテ岬 - マルティニーク島 - ポルト・プラヤ - ドッガー・バンク - チェサピーク湾 - 第2次ウェサン島 - セインツ


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カンバーランド砦の戦い(: Battle of Fort Cumberland)は、アメリカ独立戦争中の1776年遅く、アメリカ独立推進派のジョナサン・エディが少数の民兵を率いてノバスコシアを味方に引き入れようとした試みである。エディはマサチューセッツ湾植民地からあまり兵站支援を得られないまま、400ないし500名の民兵とインディアンでノバスコシア中部(現在はノバスコシアとニューブランズウィック州の州境近く)のカンバーランド砦を囲み襲撃しようとした。

砦の守備隊はフレンチ・インディアン戦争の古参兵ジョセフ・ゴーラムが指揮するほとんどが地元植民地の民兵だったが、エディの数回にわたる襲撃を撃退し、最終的に11月29日に援軍が到着して包囲部隊を駆逐したときに解放された。包囲戦を支持した地元民に対する報復として多くの家屋や農場が破壊され、パトリオット(独立推進派)のシンパは地域から追い出された。カンバーランド砦を守り抜いたことで海洋国家イギリスの植民地は一体性が保たれ、ノバスコシアは戦争が終わるまでイギリス側に留まった。


目次

1 背景

2 ノバスコシアにおける不満

3 民兵隊の起ち上げ

4 前哨戦

5 包囲戦

6 戦闘の後

7 脚注

8 参考文献

9 外部リンク


背景

アメリカ独立戦争の初期、ノバスコシアの守りは概して貧弱であり、東部で起こっている混乱によりアメリカ人が指導する暴動が起こる恐れがあった。1776年初期までにハリファックスに幾らかの援軍が到着したものの、植民地のフロンティア(辺境部)は少数の守備隊がいるだけだった[7]

カンバーランド砦は現在のノバスコシア本島とニューブランズウィックを繋ぐチグネクト地峡にあった。この地域はそれ以前の時代にフランス植民地アカディアとイギリスの支配するノバスコシアとの間の紛争で戦略的に重要な地点だった。カンバーランド砦は当初1750年にフランスがボーセジュール砦として建設したものであり、脆弱な状態にあった。イギリスは1755年のボーセジュール砦の戦いでこの砦をフランスから奪い、七年戦争が終わった後は最小の守備隊を置くだけで、1768年には放棄されていた[8]

1775年6月には既に、イギリス軍トマス・ゲイジ将軍の命令で、パトリオットの活動に対して植民地を守るためにジョセフ・ゴーラム大佐がノバスコシアの民兵とインディアンの部隊起ち上げに動いた[9]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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