カンバーランド公(カンバーランドこう、英語: Duke of Cumberland)は、イギリス王家の一員に与えられた公爵位。イングランド北部のカンバーランド(現在はカンブリア州に属する)に由来する。「カンバーランド公」として3度、カンバーランド=ストラサーン公として1度、カンバーランド=テヴィオットデイル公として1度創設された[1]。 1525年に創設されたカンバーランド伯爵
歴史
第1期
アン王女(1702年にアン女王としてイングランド、スコットランドおよびアイルランド女王に即位)の夫でデンマーク王フレデリク3世の息子であるジョージ・オブ・デンマーク(デンマーク語名ヨウエン)は、1689年4月6日にイングランド貴族であるバークシャーにおけるオッキンガム男爵、ウェストモーランドにおけるケンダル伯爵、カンバーランド公爵に叙された[3]。ジョージはロード・ハイ・アドミラル
(英語版)や五港長官(英語版)といった名誉職に就いたが、1708年に死去した時点で存命の息子がおらず、爵位は廃絶した[3]。グレートブリテン国王ジョージ2世の三男ウィリアム・オーガスタス (1721-1765) は、1726年7月27日にグレートブリテン貴族であるオルダニー男爵、コーンウォール州におけるトレメイトン子爵、サリー州におけるケンニントン伯爵、ハートフォードシャーにおけるバークハムステッド侯爵、カンバーランド公爵に叙された[4]。国王の次男には一般的にはヨーク公の称号が授けられており、ウィリアム・オーガスタスも夭逝したジョージ・ウィリアムを除くと国王の次男であるが、ヨーク公の爵位を所有していたアーネスト・オーガスタス(ジョージ2世の叔父、1728年没)が存命中だったため、ウィリアム・オーガスタスにヨーク公の爵位を授けることができなかった。ウィリアム・オーガスタスは軍人の道を歩み、デッティンゲンの戦い、フォントノワの戦い、カロデンの戦いに参戦した後、1757年にクローステル・ツェーヴェン協定を締結した廉で軍を引退せざるを得なかった[4]。1765年に生涯未婚のまま死去したため、後継者がおらず爵位は廃絶した[1]。
カンバーランド=ストラサーン公詳細は「カンバーランド=ストラサーン公」を参照
1766年、ウェールズ公フレデリック・ルイスの息子でジョージ王子(後の国王ジョージ3世)の弟にあたるヘンリー・フレデリック (1745-1790) がカンバーランド=ストラサーン公に叙されたが、一代で廃絶した[1]。
カンバーランド=テヴィオットデイル公詳細は「カンバーランド=テヴィオットデイル公」を参照