この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2018年8月)
カンナエの戦い
カンナエの戦いでのアエミリウス・パウルスの最期(ジョン・トランブルによる1773年の作画)
戦争:第二次ポエニ戦争
年月日:紀元前216年8月2日
場所:カンナエ
結果:カルタゴの勝利
交戦勢力
カルタゴローマ
指導者・指揮官
ハンニバルルキウス・アエミリウス・パウルス†
ガイウス・テレンティウス・ウァロ
戦力
32,000 重装歩兵
8,000 軽装歩兵
10,000 騎兵
50,000 総計55,000 重装歩兵
8-9,000 軽装歩兵
6,000 騎兵
70,000 総計
(10,000 野営地残留)
損害
5,700 死傷60,000 死傷
10,000 捕虜
第二次ポエニ戦争
サグントゥム
ローヌ川
アルプス
ティキヌス
トレビア
キッサ
トラシメヌス湖畔
エブロ川
アゲル・ファレルヌス
ゲロニウム
カンナエ
カンナエの戦い(カンナエのたたかい)は、紀元前216年8月2日、アプリア地方のカンナエ(カンネー)で起こった第二次ポエニ戦争における共和政ローマとカルタゴの戦いである。カンネーの戦いとも表記する。
1018年10月1日にも同じ場所で戦闘が起こっており、これもカンナエの戦いと呼ばれる(英語版)。これは東ローマとノルマン人の間で行われた戦闘で、東ローマ側が勝利したものである。 紀元前218年、アルプス山脈を越えてイタリア本土に侵入したカルタゴの将軍ハンニバルは、トレビア川の戦い、トラシメヌス湖畔の戦いで、ローマ軍に甚大な被害を与えた。ローマの元老院は、急遽ファビウス・マクシムスを独裁官に任命し、戦力を再編する時間を稼ぐことにした。ファビウスは、ハンニバルとの決戦を巧妙に避け、持久作戦を展開してカルタゴ軍の消耗を待った。 しかし、ハンニバルによってイタリア全土が略奪にさらされると、ファビウスのそうした姿勢は臆病だと指摘され、決戦を望む声が湧き起こった。これを受けてローマの元老院は、ファビウスの任期が切れると同時に、ルキウス・アエミリウス・パウルスとガイウス・テレンティウス・ウァロの両名を執政官に任命し、積極策に転じた。 両執政官は、約8万人の軍団を率いてハンニバルの迎撃に向かった。パウルスはハンニバルとの正面対決を避けるべきだと主張していたが、ウァロは決戦を望んでいた。紀元前216年8月2日、南イタリアのアプリア地方のカンナエ付近で、ローマ軍とハンニバル率いるカルタゴ軍約5万人が対峙、当日の最高指揮官であるウァロが決戦を挑んだため、カンナエの戦いが生起した。 この戦闘に参加した両軍の兵力および布陣は以下のようなものである。
前段階
布陣
ローマ軍(ローマ同盟軍含む)
重装歩兵 - 5万5千
軽装歩兵 - 8千-9千
騎兵 - 6千
ローマ軍は1万人を野営地の警備に残し、残りの7万人を戦場に展開させた。布陣は主力である重装歩兵を中央に置き、その前面に軽装歩兵を展開、右翼をローマ騎兵、左翼を同盟国騎兵が固める配置であった。その作戦意図は重装歩兵による中央突破にあり、そのために各中隊(マニブルス)の間隔を狭くして戦列中央を厚くしていた。中央の指揮は前執政官(プロコンスル)のセルウィリウスが担当し、パウルスは右翼騎兵、ウァロは左翼騎兵を指揮した。
カルタゴ軍
重装歩兵 - 3万2千
軽装歩兵 - 8千
騎兵 - 1万
カルタゴ軍の布陣は、中央に重装歩兵、その前面に軽装歩兵、両翼に騎兵を置くのはローマ軍と同様だったが、ハンニバルは重装歩兵を弓なりに湾曲させて配置し、張り出した中央部に兵を集中させて縦深を深くした。これはハンニバルの意図が、中央で敵主力を拘束している間に両翼を突破し、敵全体を包囲することにあったためである。猛攻が予想される中央には、ある程度の損害を前提としてガリア歩兵とヒスパニア歩兵を置き、その両翼には熟練のカルタゴ歩兵を置いた。さらに歩兵戦列の右翼にはヌミディア騎兵を、左翼にはヒスパニア・ガリア騎兵を配置した。カルタゴ軍はローマ軍に比べて全軍に占める騎兵の割合が多く、その質も量もローマ軍の騎兵に比べて高かった。ハンニバルは、ヌミディア騎兵をハンノ・ボミルカル(ハンニバルの甥)に指揮させ、ヒスパニア・ガリア騎兵はハスドルバルに指揮させた。