「カンダハール」のその他の用法については「カンダハール (曖昧さ回避)」をご覧ください。
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カンダハール
カンダハル
カンダハール
??????
位置
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カンダハール(ダリー語: ??????, ラテン文字転写: Qandah?r, 英: Kandahar)は、アフガニスタンの都市。アルガンダブ川渓谷に位置する同国南部の主要都市でカンダハール州の州都。人口は450,300人 (2006年の公式推計 ⇒[1])で、カーブルに次いでアフガニスタン第2の都市である。標高は海抜1,005 m、31°37′N 65°43′E。
アフガニスタンの最大民族パシュトゥーン人の居住地域にあり、パキスタンのペシャーワルと並ぶパシュトゥーン人の主要都市。アジアハイウェイの路線上にあり、北はウルーズガーン州のタリンコート、東はガズニーを経てカーブルに通じ、西はヘラート・ファラーを経てイランのホラーサーン地方および中央アジアに至る。南に進めば国境を越えてパキスタン領バローチスタンのクエッタに至り、インダス川下流域の大平原からインド亜大陸へと通ずる交通の要衝で、国際空港もある。
羊、羊毛、綿花、絹、フェルト、穀物、果物、ドライフルーツ、タバコの主要な交易センターである。周辺地域はザクロとブドウをはじめ質の良い果物を産出し、市内には多くの果物加工工場が稼働している。
カンダハールの名前は、前4世紀の征服者アレクサンドロス(Alexandoros)の「xandoros」の部分が転訛したとの説があるが[1]、カンダハールの東方、カーブルのさらに東にある仏教文化の本場ガンダーラの転訛とする説もある[2]。1748年にアフマド・シャー・ドゥッラーニーが建国したドゥッラーニー朝の首都であった[3]。カンダハル[4]とも表記される。
歴史アショーカ王碑文の一つカンダハル碑文(英語版)
カンダハールの地には先史時代から多くの人々が住みつき、インド・イラン・中央アジアをつなぐ交易の拠点となっていたことが知られる[5]。紀元前6世紀頃にはアケメネス朝の支配下に入り、ペルシア帝国の属州アラコシア(英語版)となった[6]。
現在に繋がるカンダハールの町は、紀元前4世紀、アケメネス朝を滅ぼしたマケドニア王国のアレクサンドロス大王がギリシャ語でアラコシア地方[7]と呼ばれたこの地域の主邑として、既に数千年前からの集落があったカンダハールの地に築いたギリシャ都市アレクサンドリア・アラコシアに遡る[8]。同じ世紀の末(紀元前305年)にはアレクサンドロスの帝国を引き継いだセレウコス朝からマウリヤ朝のチャンドラグプタに割譲され、孫のアショーカ王(在位紀元前268?前232年)はこの地に法勅碑文を刻ませた。丘陵の岩壁にギリシア語とアラム語で刻まれており、小磨崖法勅と呼ばれるカンダハール第一法勅である。第二法勅(ギリシア語碑文)、第三法勅(アラム語碑文)も1963年に発見されている。インドの王国の支配下に入ってインド文明の影響を受け、仏教が信仰されるようになった。その後もクシャーナ朝やサーサーン朝の統治のもとで仏教文化が栄えたが、7世紀にアラブ人による征服を受け、ムスリム(イスラム教徒)の支配下に入った。
9世紀から12世紀にかけて、カンダハールはサッファール朝、ガズナ朝、ゴール朝などのイラン・アフガニスタン方面に勃興したイスラム王朝の支配を相次いで受け、イスラム都市となっていった。ゴール朝の滅亡後まもない1222年にはチンギス・ハーンによって征服され、モンゴル帝国の版図に加えられる。1383年には今度はティムールの征服を受け、アフガニスタン南部からバローチスターン北部(クエッタ周辺)を支配するティムール朝の地方政権が栄えた。
16世紀初頭に中央アジアから南下してきたティムール朝の王子バーブルがカーブルを本拠地とする政権を樹立するとカンダハールもその支配下に加えられ、バーブルの興したムガル帝国の一部となった。バーブルが死ぬと、カーブルを継承した次男カームラーンの支配下に入り、インドを支配する長男フマーユーンとの間で争奪され、これに西のイランを支配するサファヴィー朝が介入した。
ムガル帝国を再統一したフマーユーンの子アクバル以来、カンダハールはムガル帝国とサファヴィー朝の間で激しい争奪戦が繰り広げられる最前線となり、1558年にサファヴィー朝のタフマースブ1世が奪取したが、1594年にアクバルが奪還した。1621年になってサファヴィー朝のアッバース1世がカンダハールを占領したが、1638年にはカンダハール総督のアリー・マルダーン・ハーンがサファヴィー朝に反逆してムガル帝国に下り、再度ムガル帝国の統治下に入った。