ランフランクス
カンタベリー大司教
カンタベリー大聖堂の外壁にあるランフランクスの彫像
管区カンタベリー
カンタベリーのランフランクス (ラテン語: Lanfrancus Cantuariensis、1005年頃 - 1089年)は、カンタベリー大司教で、生まれはランゴバルド人[1]。「カンタベリーの」ランフランクスと呼ばれるのはカンタベリー大司教を務めたことによる。ベック修道院学校の長を務めたことに因んでベックのランフランクス、出身地からパヴィアのランフランクスとも呼ばれる。 ランフランクスは11世紀初頭のパヴィアで生まれた。パヴィアでは後に、彼の父ハンバルドが大まかに言って領主層と同じ階級だったという伝承が生まれた。しかしランフランクスは幼少期に孤児として育った[2]。 ランフランクスは自由学芸を学ぶことで学問的研鑽を積んだ。当時の北イタリアは自由学芸の中心地として有名であった。理由も時期も定かではないが、彼はアルプスを越えて、すぐにフランスで、後にはノルマンディーで教職に従事した。1039年ごろにはアヴランシュの聖堂学校の教師となり、そこで3年間教え続け目覚ましい成功をおさめた。しかし1042年には新しく建設されたベック修道院で修道士の職に就くことに応じた。ランフランクスは1045年までベックで完全に俗界と隔絶した環境で暮らした。 ランフランクスは修道院長のヘルルイヌス
目次
1 若年期
2 教師と学者
3 修道院次長から修道院長へ
4 カンタベリー大司教
5 列聖の過程
6 史料
7 関連項目
8 脚注
9 参考文献
若年期
教師と学者
ヒルデブラントや枢機卿の内のより心の広い人々によってベレンガリウスの主張が棄却されたのはランフランクスの影響があるとされている。ランフランクスの論証法について知られている情報は主に小冊子『主の肉と血について』(羅:De corpore et sanguine Domini)に由来している。この小冊子が執筆されたのはかなり後年のこと(1079年以降)で、その頃にはベレンガリウスは最終的に有罪宣告されていた。この著作は形而上学的能力の兆候を全く示していないが、決定的なものとみなされてしばらくの間学校で教科書として利用された。この著作は、アリストテレスの実体と偶性の区別が初めて聖餐における変化を説明するのに使われたものだとしばしば言われる。この著作はランフランクスに帰せられる現存する作品の中で最も重要である。 ランフランクスは学校で教育に従事している時期と論争に従事している時期の間に権力を得ていった。後の伝承では、彼はベック修道院次長になった一方で、ノルマンディーのギヨーム2世とマティルダ・オブ・フランダースとの教会法に悖る結婚(1053年)に反対して問題を起こしたため追放された。しかし、彼がまさに出発しようとしたときに論争は終結し、彼は教皇から結婚の承認を取り付けるという難しい役目を引き受けることになった。これに関して彼は成功して、さらに、同じ教会会議で彼はベレンガリウスに対する三度目の勝利(1059年)を収め、ギヨーム2世から感謝され続けることになった。この話を評価すると、ギヨーム2世とマティルダの結婚の障害は実際のところなんだったのかを伝える信頼できる史料がないことが注目される。ランフランクスは1066年にカーンの聖エティエンヌ修道院
修道院次長から修道院長へ
それ以降ランフランクスは自身の教師の方針にかなりの影響を及ぼした。ギヨームは教会の改革のためにクリュニー修道院で行われた方法を採用し、ローマの協力を得て教会の分裂・腐敗に対抗する十字軍という体でイングランド遠征を行った。