カンタベリーのランフランクス
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ランフランクス
カンタベリー大司教
カンタベリー大聖堂の外壁にあるランフランクスの彫像
管区カンタベリー
教区カンタベリー司教区
主教区カンタベリー大司教
任命1070年8月
離任1089年5月24日
前任スティガンド
後任カンタベリーのアンセルムス
他の役職聖エティエンヌ修道院長
聖職
司教/主教1070年8月15日
個人情報
本名ランフランクス
死去1089年5月24日
両親ハンバルド

カンタベリーのランフランクス (ラテン語: Lanfrancus Cantuariensis、1005年頃 - 1089年)は、カンタベリー大司教で、生まれはランゴバルド人[1]。「カンタベリーの」ランフランクスと呼ばれるのはカンタベリー大司教を務めたことによる。ベック修道院学校の長を務めたことに因んでベックのランフランクス、出身地からパヴィアのランフランクスとも呼ばれる。
目次

1 若年期

2 教師と学者

3 修道院次長から修道院長へ

4 カンタベリー大司教

5 列聖の過程

6 史料

7 関連項目

8 脚注

9 参考文献

若年期

ランフランクスは11世紀初頭のパヴィアで生まれた。パヴィアでは後に、彼の父ハンバルドが大まかに言って領主層と同じ階級だったという伝承が生まれた。しかしランフランクスは幼少期に孤児として育った[2]

ランフランクスは自由学芸を学ぶことで学問的研鑽を積んだ。当時の北イタリアは自由学芸の中心地として有名であった。理由も時期も定かではないが、彼はアルプスを越えて、すぐにフランスで、後にはノルマンディーで教職に従事した。1039年ごろにはアヴランシュの聖堂学校の教師となり、そこで3年間教え続け目覚ましい成功をおさめた。しかし1042年には新しく建設されたベック修道院で修道士の職に就くことに応じた。ランフランクスは1045年までベックで完全に俗界と隔絶した環境で暮らした。
教師と学者

ランフランクスは修道院長のヘルルイヌス(英語版)の勧めによって修道院内に学校を開いた。ランフランクスは当初から称賛された(totius Latinitatis magister)。彼の下にはフランス・ノルマンディーからだけではなくガスコーニュフランドルドイツイタリアからも門人が集った。その多くは後に教会内で高い地位に就いた。後に教皇アレクサンデル2世となったバッジョのアンセルムスも彼の門人とされているし、ベックのアンセルムスもランフランクスの跡を継いでカンタベリー大司教となっている。このようにしてランフランクスはベックを中心とした改革運動の知的活動を保護した。彼の講義で好まれた議題は論理学と教義神学である。そのため彼はトゥールのベレンガリウスの攻撃から聖変化の教義を擁護するために招聘された。彼は非常に熱心にその責務に取り組んだが、ベレンガリウスとはかねてよりの個人的な親交関係があった。彼はヴェルチェッリ教会会議(1050年)、トゥール教会会議(1054年)、ローマ教会会議(1059年)において正統教義の唱道者であった。

ヒルデブラント枢機卿の内のより心の広い人々によってベレンガリウスの主張が棄却されたのはランフランクスの影響があるとされている。ランフランクスの論証法について知られている情報は主に小冊子『主の肉と血について』(羅:De corpore et sanguine Domini)に由来している。この小冊子が執筆されたのはかなり後年のこと(1079年以降)で、その頃にはベレンガリウスは最終的に有罪宣告されていた。この著作は形而上学的能力の兆候を全く示していないが、決定的なものとみなされてしばらくの間学校で教科書として利用された。この著作は、アリストテレスの実体と偶性の区別が初めて聖餐における変化を説明するのに使われたものだとしばしば言われる。この著作はランフランクスに帰せられる現存する作品の中で最も重要である。
修道院次長から修道院長へ

ランフランクスは学校で教育に従事している時期と論争に従事している時期の間に権力を得ていった。後の伝承では、彼はベック修道院次長になった一方で、ノルマンディーのギヨーム2世マティルダ・オブ・フランダースとの教会法に悖る結婚(1053年)に反対して問題を起こしたため追放された。しかし、彼がまさに出発しようとしたときに論争は終結し、彼は教皇から結婚の承認を取り付けるという難しい役目を引き受けることになった。これに関して彼は成功して、さらに、同じ教会会議で彼はベレンガリウスに対する三度目の勝利(1059年)を収め、ギヨーム2世から感謝され続けることになった。この話を評価すると、ギヨーム2世とマティルダの結婚の障害は実際のところなんだったのかを伝える信頼できる史料がないことが注目される。ランフランクスは1066年にカーンの聖エティエンヌ修道院の初代院長となった。この修道院はギヨームが教皇座に対して命令違反したことの償いとして立てさせられたとされている。

それ以降ランフランクスは自身の教師の方針にかなりの影響を及ぼした。ギヨームは教会の改革のためにクリュニー修道院で行われた方法を採用し、ローマの協力を得て教会の分裂・腐敗に対抗する十字軍という体でイングランド遠征を行った。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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