カンタブリア州
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カンタブリア自治州
Comunidad Autonoma de Cantabria


州旗紋章


州都サンタンデール
公用語カスティーリャ語
面積
 – 総面積
 – 割合第15位
  5,321km2
  1.05%
人口
 – 総人口(2008)
 – 割合
 – 人口密度第16位
  582,138人
  1.3%
  111.49人/km2
住人の呼称
 – カスティーリャ語 
cantabro/a、cantabrico/a
自治州法1981年1月11日
ISO 3166-2:ESS
州歌Himno de Cantabria
議席割当
 – 下院
 – 上院 
  5
  5
州首相マリア・ホセ・サエンス・デ・ブルアガ国民党
州政府のサイト

カンタブリア州(カンタブリアしゅう、Cantabria)は、スペインを構成する自治州。かつてサンタンデール県(スペイン語版)と呼ばれたカンタブリア県のみで構成される。州都はサンタンデール

東はバスク州、南はカスティーリャ・イ・レオン州、西はアストゥリアス州と接しており、北は大西洋カンタブリア海に面している。

カンタブリア州はカンタブリア海とカンタブリア山脈に挟まれたエスパーニャ・ベルデ(緑のスペイン)に含まれている。緑と呼ばれる所以は、山脈にはね返される大西洋からの風で強く影響を受ける、湿潤な海洋性気候だからである。平均の降雨量は1,200mmで、これが豊富な植物の生長を可能にしている。

カンタブリアは、歴史的には定冠詞のついた大文字の「ラ・モンターニャ」(la Montana)と呼ばれていた。
地名の由来

イシドールスを含む各時代の著述家たちは、カンタブリアという名の語源を探し求めてきたが、まだ明らかになっていない。一般的には、cantはケルト語リグーリア語の岩か石、-abrとはケルト人の地方共通の接尾詞であるとされている。従って、カンタブリア人とは険しい山脈へ言及した『岩の上で暮らす人々』または高地人という意味になる[1]
歴史
ローマ帝国

カンタブリアという名前に言及し初めて書かれたのは紀元前195年、歴史家大カトは自著の中で、カンタブリ族(ケルト系かバスク系とされる)の国にあるエブロ川の水源についてふれている。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}... fluvium Hiberum; is oritur ex Cantabris; magnus atque pulcher, pisculentus.—Cato the Elder、Origenes: VII

[注釈 1]

その時以来、カンタブリ族がイベリア半島内外での多様な衝突において傭兵として用いられたので、CantabriまたはCantabriaと連続して言及された。シリウス・イタリクス(Book III)、ホラティウス(Book IV, Ode XIV)の記述から、彼らが第二次ポエニ戦争において、ローマと戦ったカルタゴ側に参加していたことは確かである。さらに、彼らはガイウス・ホスティリウス・マンシヌスによって行われたヌマンティア包囲中にも言及された。マンシヌスは都市の包囲で出世したと言われており、カンタブリ人とヴァッカエイ人(ヒスパニア北部にいたケルティベリア人の一つ)が彼の援軍の中にいたと知らされたことで、危機から逃れられたという。カンタブリア戦争時代のカンタブリア

その後の期間の参照の大半は、紀元29年に始まった反ローマのカンタブリア戦争と関係している。およそ150の参照がギリシャ語ラテン語の文献の中で見つかっており、カンタブリ族の悪評を証明しているのである。彼らの領域は現在のカンタブリア州より著しく大きく、カンタブリア海が北の境界で(カンタブリア海の名はローマ人がビスケー湾を指すため用いた)、セッラ川谷の西端が西の境界であった(現在はアストゥリアス州に属す)。南はペーニャ・アマヤの丘砦(現在のブルゴス県)ほど遠くまで伸び、東はアグエラ川に近接するカストロ・ウルディアレスまで伸びていた。
中世

ローマ帝国の衰退にともない、カンタブリアは西ゴート族支配からその自治を再獲得した。574年、西ゴート王リウヴィギルド王(en:Liuvigild)がカンタブリアを攻撃し、アマヤ(現在はブルゴス県)を含む南部を落として勢力下におさめ、カンタブリア公国という西ゴートの州を設置した。そこは、カンタブリ族同様にヴァスコン族を含む国境防衛線またはリーメスにされたのである。しかし、この非常線の北で、カンタブリ族はアラブ人の侵攻まで独立を保ち生き延びた。

714年、イスラム教徒のアラブ人とベルベル人の混成軍がエブロ川谷上流を侵略し、カンタブリア公国の首都アマヤを陥落させた。彼らは自分たちの防衛制度を整備するため、カンタブリア人に従来の国境防衛線にとどまるよう強いた。カンタブリア人は初期のアストゥリアス王国に合流した。

レコンキスタ初期の年代記において、カンタブリアはまだ地方として認められているように見えた。アルベンデンセ年代記の中で、アストゥリアス王アルフォンソ1世は“iste Petri Cantabriae ducis filius fuit[注釈 2]”と、カンタブリア公ペドロとカンタブリア公の称号、彼の公国の領域の確認を述べたとある。カンタブリア公国の境

この時期から、文献となる公文書は辛うじて、アストゥリアスという名称によってカンタブリアへ言及するようになった。アストゥリアス・デ・サンティリャナ、アストゥリアス・デ・トラスミエラ、アストゥリアス・デ・ラレードと呼ばれたコマルカの言及においてアストゥリアスの名が優勢であった。

4つの兄弟都市(サンタンデール、ラレード、カストロ・ウルディアレス、サン・ビセンテ・デ・ラ・バルケーラ)を中核として、沼地の兄弟会(es:Hermandad de las marismas、カンタブリア主要都市が抱える艦船の連合。カスティーリャ海軍の一翼を担った。対外ビジネスにおいて自治が維持され、一部のケースでは対フランス、対イングランドとの海戦に参加した)が創設され、アストゥリアス東部の重要海港全てを兄弟会のために結合した。

レコンキスタ時代、4都市はアンダルシア再征圧に人と船を派遣し、積極的に参加した。カディス、エル・プエルト・デ・サンタ・マリアといった海岸の港湾都市へは、カンタブリア海沿岸の港からやってきた一家が再入植した。4都市から来た船はさらにセビリャへの攻撃に加わり、トリアナとセビリャの間をつなぐ橋を破壊したこと、カンタブリアの大帆船、セビリャのトーレ・デル・オロなどでの戦争実績は、サンタンデール、カンタブリア州、アビレスなどの紋章に描かれた。
16世紀から18世紀

16世紀、ラ・モンターニャ(La Montana、山地)という名が一般的な使用法そして文学において広まった。これは古いカンタブリアを指すものとして、もっぱら半島のメセタ中央部を指していたカスティーリャという名称に相対するものであった。この区別は現代になるまで残った。

カトリック両王の台頭で、沼地の兄弟会は消滅し、ほぼカンタブリア全体に等しい4都市の古い兄弟会の影響を含め、クアトロ・ビラス(4都市)王室代官区(Corregimiento de las Cuatro Villas)がその代わりを務めた。

アンシャン・レジームの間、カンタブリア最大の裁判管轄区域は、主としてスペインの大貴族(en:Grandee)3家によって管理された。メンドーサ家(インファンタド公、サンティリャーナ侯)、マンリケ・デ・ララ家(アギラール・デ・カンポー侯、カスタニェーダ伯)、そしてより小さなベラスコ家(フリアース公、カスティーリャ軍総司令官)である。

16世紀以降、カンタブリアとカンタブリ族に関する研究への関心が再出現した。特にカンタブリ族が占領した領土の正確な位置の問題においてである。18世紀まで、古代のカンタブリアの位置及び拡大についての議論は定まらなかった。アウグスティヌス会の神父で歴史家のエンリケ・フロレス・デ・セティエーンによる『ラ・カンタブリア』のような、地方の歴史の知識について重要な仕事がなされたおかげであった[2]。カンタブリアへのこの関心の再熱と、前述の論争の解明と同時に、山脈地方での多くの機関、組織と裁判権に、『カンタブリア人の』または『カンタブリアの』という名が受け入れられた。

16世紀終盤、疫病の流行を前にして無防備であったカンタブリア人口は、以前の1/10にまで減少するという後退の危機に見舞われた。18世紀に入るまで、カンタブリアの諸都市は経済と人口の衰退が長引いた。

1727年、その後カンタブリア州となる地域を統一する、最初の試みが行われた。これにもかかわらず州としてまとまることはなかった。カンタブリアの散り散りになった土地が小さく自治体として実在することで高度な自治を享受したため、よく知られた財源不足と結合し、引き続きカンタブリアの弱点の主因となり続けた。これはスペイン・ブルボン家の中央集権主義および、その管理能力の発達により悪化した。

ラレードとサンタンデールが競い合った結果として、サンタンデール市は事実上19世紀初頭に設置された州の名をカンタブリアとすることが許された。どちらが州都になったかは疑いがなく、サンタンデールが後で自らの市名を州名とするよう要求したのである。


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