カンザスシティ_(ミズーリ州)
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カンザスシティ
Kansas City


市旗

愛称 : "KC", "City of Fountains", "Heart of America", "Paris of the Plains", "The Little Apple"
位置

左: カンザスシティ市域を含む4郡におけるカンザスシティの位置と市域の広がり方
右: ミズーリ州内における4郡の位置

ミズーリ州の位置
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯39度6分35秒 西経94度35分19秒 / 北緯39.10972度 西経94.58861度 / 39.10972; -94.58861
歴史
市制1853年3月28日
行政
アメリカ合衆国
  ミズーリ州
 ジャクソン郡クレイ郡プラット郡キャス郡
 市カンザスシティ
市長クイントン・ルーカス(英語版)
地理
面積 
  市域825.69 km2 (318.80 mi2)
    陸上  815.14 km2 (314.73 mi2)
    水面  10.55 km2 (4.07 mi2)
  市街地20,596 km2 (7,952 mi2)
  都市圏1,849.5 km2 (714.10 mi2)
標高277 m (910 ft)
人口
人口(2020年現在)
  市域508,090人
    人口密度  623.31人/km2(1,614.38人/mi2)
  市街地2,392,035人
  都市圏1,674,218人
    都市圏人口密度  905.2人/km2(2,344.5人/mi2)
  備考[1]
その他
等時帯中部標準時 (UTC-6)
夏時間中部夏時間 (UTC-5)
市外局番816
公式ウェブサイト : ⇒http://www.kcmo.org/

カンザスシティ(Kansas City)は、アメリカ合衆国ミズーリ州西部に位置する都市。市域はジャクソン郡を中心に4郡にまたがる。市はカンザス川ミズーリ川に合流する地点を中心に広がっている。人口は50万8090人(2020年)でミズーリ州最大である。ミズーリ・カンザス両州の15郡にまたがるカンザスシティ都市圏は219万2035人(2020年)[2]の人口を抱えている。東西でセントルイスデンバー、南北でダラスミネアポリスのちょうど中間に位置する極めて重要なビジネス拠点かつ東西アメリカの結節点であり、主要な世界都市ランキングである「グローバリゼーションと世界都市研究ネットワーク」(GaWC)ではガンマ?の世界都市と評されるなど、アメリカ中西部有数の世界都市である。
概要

カンザスシティはミズーリ州側とカンザス州側の2つに分かれている。合流点以東はすべてミズーリ州となっており、以西ではミズーリ川以北がミズーリ州、以南がカンザス州となっている。市名からカンザス州側がメインとなる都市であると思われがちであるが、実際には人口が多いのも、超高層ビルが立ち並ぶダウンタウンが発展しているのもミズーリ州側である。そのため単に「カンザスシティ」と言った場合、ほとんどはミズーリ州側を指す。ミズーリ州側はKCMO、カンザス州側はKCKと略される。また単にKCと略すこともあるが、KCと略した場合カンザスシティ都市圏を指すことも少なくない。

1930年代民主党マシーン利益誘導政治)のボス、トム・ペンダーガストはあらゆる面においてカンザスシティに大きな影響を及ぼした。禁酒法時代、ペンダーガストの庇護下で違法営業していたナイトクラブには演奏旅行で大陸を横断する楽団が立ち寄った。やがてカンザスシティ・ジャズが花開き、カウント・ベイシーを世に送り出し、チャーリー・パーカーを生んだ。また、ペンダーガストはハリー・S・トルーマンを支え、後に第33代大統領になる道筋を作った。一方で、カンザスシティにはギャングがはびこり、治安が悪化した。現代においても、カンザスシティの治安はあまり良くない。

カンザスシティの市内には200ヶ所以上の噴水があり、そのためFountain City(噴水の街)と呼ばれている。また、古くは畜産の中心地であったことから、カンザスシティはステーキバーベキューで知られ、Cowtown(肉牛の町)、BBQ Capital of the World(世界のバーベキューの都)とも呼ばれる。国の地理重心と人口重心の両方から400km以内に位置することからHeart of America(アメリカの中心)とも呼ばれる。
歴史カンザスシティの礎となった3名の像。ウェストポート地区のカンザスシティ・パイオニア・スクウェアに立っている。左からアレクサンダー・メジャーズ、ジョン・カルバン・マッコイ、ジム・ブリッジャー

ミズーリ州カンザスシティは1850年に正式な自治体となった。ミズーリ川カンザス川の合流点を中心としたこの一帯は、入植地を建設するにあたって良い場所であると考えられていた。
探検と入植

この一帯を最初に訪れた記録が残っている最初のヨーロッパ人はフランス人探検家のエティエンヌ・ド・ヴェニアール(Etienne de Veniard, Sieur de Bourgmont)である。ヴェニアールはミズーリ川の下流域を初めて探検したヨーロッパ人でもあった。現在のデトロイトにあったデトロイト砦でのネイティブ・アメリカンの攻撃への対処に失敗したことで非難を浴びると、ヴェニアールはフランス当局を避けるために砦を離れ、この地から約145km東にあったミズーリ族の村でネイティブ・アメリカンの妻と共に暮らし、毛皮の違法取引をしていた。

名誉を挽回するため、ヴェニアールは1713年にExact Description of Louisiana, of Its Harbors, Lands and Rivers, and Names of the Indian Tribes That Occupy It, and the Commerce and Advantages to Be Derived Therefrom for the Establishment of a Colony(ルイジアナの港、土地、川、この地に住むネイティブ・アメリカンの部族の名、入植地の建設によって得られる商取引と利益に関する正確な記述)を、翌1714年にはThe Route to Be Taken to Ascend the Missouri River.(ミズーリ川を遡るにあたって取るべき道筋)を著した。これらの文書の中で、ベニアルドはGrnade Riv[iere] des Cansez(カンザス川のこと)とミズーリ川の合流点についても言及した。フランス人地図製作者ギヨーム・ドゥリール(Guillaume Delisle)は地域の正確な地図を作るためにこの記述を用いた。

1763年パリ条約が締結されると、この一帯はスペイン領となった。しかし、スペインは課税したり、交通の認可を出したりする以外にはあまりこの地には関与せず、スペインの認可の下にフランスが毛皮の取引を続けていた。シュートー家は1765年にはスペインの認可の下にセントルイスに拠点を置き、ミズーリ川下流域での毛皮の取引を行っていた。しかし、シュートー家がこの地まで西進してきたのは、1821年にフランソワ・シュトー(Francois Chouteau)がシュトーズ・ランディングを創設したときのことであった。ルイス・クラーク探検隊がミズーリ州でたどった道を記している案内板。クォリティ・ヒル地区にて。

ルイジアナ買収のあと、セントルイスを出発して西へと向かっていたルイス・クラーク探検隊はカンザス川とミズーリ川が合流するこの地を訪れ、クォリティ・ヒル地区を「砦を建てるのに良い場所である」と評した。

1833年、ジョン・カルバン・マッコイはミズーリ川から5kmほど離れたサンタフェ・トレイル沿いにウェストポート(現在のウェストポート地区)を創設した。翌1834年には、マッコイはウェストポートへの下船地としてミズーリ川沿いにウェストポート・ランディングを建設した。その直後、投資者グループのカンザスタウン会社がこの地への入植を始めた。カンザスタウン会社の名はCansezの英語名であるKansasからとったものであった。1850年、この地はタウン・オブ・カンザスとして正式な町になった。

この頃、タウン・オブ・カンザス、ウェストポート、インディペンデンスの3つの町はアメリカ合衆国の西部への領土拡大において極めて重要であった。西部へ通ずるサンタフェカリフォルニアオレゴンの3つのトレイルは、すべてこの3つの町を有するジャクソン郡を起点としていた。

1853年2月22日、市長が新たに選出され、シティ・オブ・カンザスが創設された。市域はわずか1.8km2、人口は2,500人であった。その当時の市境線は、北はミズーリ川、南は現在の9thストリート、西はブラフ・ストリート、東はホームズ・リード・ストリートとシャーロット・ストリートの間であった。
南北戦争

南北戦争が開戦すると、この一帯には敵対心が出てくるようになった。ミズーリ州がフランス植民地時代からの奴隷州であったのに対し、1861年に州に昇格したカンザス州は住民投票によって自由州となることを選んだからである。この地域に住んでいた、奴隷制に反対する住民が多数カンザス州側に移り住んだ。この2州は初めは投票箱で、次いで血を流して戦うことになった。

南北戦争中、シティ・オブ・カンザスは戦火の真っ只中にあった。この地で行われた戦闘のほとんどは北軍の勝利に終わった。1862年8月のインディペンデンスの戦いでは、南軍が北ミズーリに進み、カンザスシティを連合国の支配下に収めた。しかしそれは長くは続かなかった。1864年ウェストポートの戦いで北軍は勝利を収め、カンザスシティにおける連合国の支配は終わった。しかし、南軍のウィリアム・クォントリルが西郊のカンザス州ローレンス侵攻に成功したときは、ジャクソン郡を含むミズーリ州の4郡の住民に対し、北軍のトーマス・ユーイングによる避難命令が出された。
南北戦争後カンザスシティの鳥瞰図(1869年1月、A. Ruger作、Merchants Lith社。)

南北戦争が終わると、シティ・オブ・カンザスは急速に発展した。1867年ハンニバルセントジョセフを結ぶハンニバル・アンド・セントジョセフ鉄道(Hannibal & St. Joseph Railroad)を途中のキャメロンで分岐させ、カンザスシティを通る鉄道につなぐため、ミズーリ川にハンニバル橋を架ける計画が立てられた。1869年にハンニバル橋が架けられると、市の人口は劇的に増え、この地域における中心都市としての地位を確立した。翌1870年には、シティ・オブ・カンザスの人口は32,260人を数えた。1889年にはシティ・オブ・カンザスはカンザスシティに改名され、市域も南方向と東方向に広がった。1897年12月2日には、カンザスシティはウェストポートを併合した。

やがて、都市計画家ジョージ・ケスラーが中心となって都市美観運動が始まった。カンザスシティの至る所に幅の広い通りや公園が設置され、1914年にはユニオン駅が現在の位置に移された。第一次世界大戦後、1923年には戦没者の慰霊碑としてリバティ・メモリアルがユニオン駅の南隣に建てられた。この2棟の建物はダウンタウン南側のランドマークとなった。さらに南に開発は進み、1925年には、カントリークラブ地区開発計画に基づいてカントリークラブ・プラザの建設が始まった。
ペンダーガストの時代

20世紀初頭、カンザスシティではマシーンが台頭した。1925年頃には、トム・ペンダーガストの率いるマシーンが台頭し、市政を牛耳るほどにまでなった。ペンダーガストは民主党のマシーンによる市政のコントロールをしやすくするために市議会の議員数を32名から9名に大幅に減らし、腐敗したシティ・マネージャーを置いた。カンザスシティ市庁舎やジャクソン郡の地方裁判所といった重要な建物も、この時期にペンダーガストによって建てられた。当時のアメリカ合衆国には禁酒法が存在していたが、ペンダーガストはその禁酒法を有名無実化させ、市内のナイトクラブの違法営業を庇護した。ペンダーガストが1939年脱税で有罪になると、マシーンの力も衰えていった。しかし、ペンダーガストとそのマシーンはハリー・S・トルーマンが政界を駆け上るきっかけとなった。
第二次世界大戦後

第二次世界大戦後、カンザスシティの裕福な住民はジャクソン郡東部やカンザス州ジョンソン郡などの郊外に移り住むようになり、急速にスプロール化が進行していった。また、ミズーリ川を越え、1940年代から1970年代にかけて新たにカンザスシティに併合された北側へも多くの住民が移っていった。そのため中西部の多くの主要都市同様に都心部の空洞化が進みながらも、市の人口は1960年代まで数値の上では増え続けた。1970年には人口507,087人でピークに達した。

1940年には、市の人口は約40万人であった。2000年には統計上は約44万人の人口を抱えているものの、1940年当時に市域であった地域には当時の半分以下、約18万人しか住んでいない。1940年から1960年にかけて市域は2倍以上になったが、人口は約75,000人しか増加していない。1970年には市域は800km2を超え、1940年当時の5倍以上に達している。

カンザスシティのスプロール化の主な原因としては、公民権運動によって人種間の緊張が高まり、暴動が頻発したことが挙げられる。市中心部のスラムインナーシティを形成する一方で、転出するだけの経済的な余力のある住民は中心部から離れていった。第二次世界大戦後に作り上げられた郊外像や「アメリカン・ドリーム」もまた、カンザスシティにおけるスプロール化の原因となった。市がスプロールしていくにつれて、インナーシティはますます凋落していった。

ジャクソン郡では未だにスプロール化が進行中である。その北に隣接するクレイ郡でもスプロール化が再度始まっている。しかし、近年ではダウンタウンの再開発が進み、スプロール化のペースは鈍化傾向にある。荒廃したインナーシティもニューアーバニズムによって、再生へと向かいつつある。


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