カンサスシティスタンダード(Kansas City standard, KCS)[注釈 1]またはバイトスタンダード(Byte standard)とは、コンパクトカセットテープに300 - 2400ビット/秒(300 - 2400ボー)のデータレートでデジタルデータを記録する(データレコーダ)フォーマットの一つである。1976年に初めて定義された。これは、1975年11月にミズーリ州カンザスシティで開催された『バイト』誌主催のシンポジウムで、安価な民生用カセットにマイクロコンピュータで作成したデジタルデータを保存するための標準規格を開発したことに端を発している。
基本規格のバリエーションの一つにCUTSがあり、これは300ビット/秒では同様だったが、オプションで1200ビット/秒のモードもあった。CUTSは、エイコーンやMSXなどで使用されていたデフォルトのエンコーディングだった。MSXにはさらに高い2400ビット/秒モードが追加されたが、それ以外は同様だった。CUTSの1200ビット/秒モードは、クロスプラットフォームのBASICODE(英語版)で使用される標準でもあった。
KCSはマイクロコンピュータ革命の初期から存在していたが、別のエンコーディングの発生を防ぐことはできなかった。当時のほとんどのホームコンピュータは、KCSと互換性のない独自のフォーマットを使用していた。 初期のマイクロコンピュータは、一般的にプログラムの保存に紙テープを使用していたが、紙テープは高価だった。コンピュータコンサルタントのジェリー・オグディンは、紙テープの代わりにコンパクトカセットを使用し、音声で記録することを思いついた。彼はこのアイデアを『ポピュラーエレクトロニクス』誌の編集者であるレス・ソロモンに伝えた。彼も同様に紙テープに不満を持っていた。1975年9月、2人はHITS(Hobbyists' Interchange Tape System)についての記事を共著した。この方式は、1と0を表す2つのトーンを使用している。その後すぐに、多くのメーカーが同様のアプローチを使い始めたが、それぞれのシステムには互換性がなかった[1]。 『バイト』誌を創刊したばかりのウェイン・グリーンは、全てのメーカーが一堂に会して、データレコーダの統一規格を作成することを望んでいた。彼は1975年11月7日から8日までの2日間、ミズーリ州カンザスシティで会議を開いた[2]。この会議では、ドン・ランカスターが『TVタイプライター・クックブック』で提案した方式を採用することで合意した。会議の後、プロセッサ・テクノロジー社のリー・フェルゼンスタインとパーコム
歴史
前史
カンサスシティ・シンポジウム
KCSカセットインターフェイスは、シリアルポートに接続するモデムに似ている。シリアルポートからの"1"と"0"は、周波数偏移変調(FSK)によってオーディオトーンに変換される。"0"のビットは1200 Hzの正弦波の4周期、"1"のビットは2400 Hzの8周期で表される。これにより、データレートは300ボー[注釈 2]となる。各フレームは、1つの"0"のスタートビットから始まり、8つのデータビット(最下位ビットが最初)、2つの"1"のストップビットが続くので、各フレームは11ビットとなり、毎秒.mw-parser-output .frac{white-space:nowrap}.mw-parser-output .frac .num,.mw-parser-output .frac .den{font-size:80%;line-height:0;vertical-align:super}.mw-parser-output .frac .den{vertical-align:sub}.mw-parser-output .sr-only{border:0;clip:rect(0,0,0,0);height:1px;margin:-1px;overflow:hidden;padding:0;position:absolute;width:1px}27+3⁄11バイトのデータレートとなる。
『バイト』1976年2月号にはシンポジウムのレポート[3]が掲載され、3月号にはドン・ランカスター[4]とハロルド・マウフ[5]によるハードウェアの例が掲載された。 300ボーというレートは、信頼性が高いが、遅く、典型的な8キロバイトのBASICプログラムをロードするのに5分もかかった。ほとんどのオーディオカセット回路は、より高速な速度に対応していた。
レス・ソロモンによれば、KCSの努力は実を結ばなかったという。「残念ながら、それは長くは続かなかった。その月が終わる前に、誰もが自分のテープ規格に戻ってしまい、録音方法の混乱が悪化してしまった。[1]」
カンサスシティ・シンポジウムの参加者は以下の通りである[3]。 プロセッサ・テクノロジー社は、300ボーまたは1200ボーで動作するCUTS (Computer Users' Tape Standard)方式を開発し、普及した。プロセッサ・テクノロジー社は、S-100バスのCUTSテープI/Oインターフェースボードを提供している。 ターベル・カセット・インターフェイス
Ray Borrill(英語版), Bloomington, Indiana
Hal Chamberlin, The Computer Hobbyist, Raleigh, North Carolina
Richard Smith, The Computer Hobbyist, Raleigh, North Carolina
Tom Durston, MITS, Albuquerque, New Mexico
Bill Gates, MITS, Albuquerque, New Mexico
Ed Roberts, MITS, Albuquerque, New Mexico
Bob Zaller, MITS, Albuquerque, New Mexico
Lee Felsenstein, LGC Engineering / Processor Technology, Berkeley, California
Les Solomon, Popular Electronics Magazine, New York, New York
Bob Marsh, Processor Technology, Berkeley, California
Joe Frappier, Mikra-D, Bellingham, Massachusetts
Gary Kay, Southwest Technical Products Corp, San Antonio, Texas
Harold A Mauch, Pronetics/Percom Data, Garland Texas
Bob Nelson, PCM, San Ramon, California
George Perrine, HAL Communications Corp, Urbana, Illinois
Paul Tucker, HAL Communications Corp, Urbana, Illinois
Michael Stolowitz, Godbout Electronics, Oakland, California
Mike Wise, Sphere, Bountiful, Utah
CUTS
ターベル
フロッピーROM『インターフェイス・エイジ』1977年5月号。カンサスシティスタンダードによりプログラムを記録したソノシートが付録としてついている。
1976年8月にニュージャージー州アトランティックシティで開催されたPCショーで、プロセッサ・テクノロジー社のボブ・マーシュは、『インターフェイス・エイジ(英語版)』誌の発行者であるボブ・ジョーンズに、レコードにソフトウェアをプレスすることについて話を持ちかけた。プロセッサ・テクノロジー社は、Intel 8080のプログラムを提供して録音してもらったが、このテストレコードはうまく動作せず、同社ではこの取り組みに時間を割くことができなかった[7]。
SWTPC社のダン・メイヤーとゲイリー・キーは、Robert Uiterwykに対し、MC6800用の4K BASICインタプリタプログラムを提供するよう手配した。このプログラムをKCSによりオーディオテープに録音し、そのテープからマスターレコードを作るというアイデアである。Eva-Tone(ソノシート)は薄いビニール製のレコードに1曲分を記録することができた。これは安価で、雑誌に付録としてつけることができた[8]。
マイクロコンピュータシステムズ社のビル・ターナー[9]とビル・ブロングレン[10]、『インターフェイス・エイジ』誌のボブ・ジョーンズ、ホリデイ・イン社のバド・シャムバーガーがEva-Tone社と協力して、レコードへのプログラムの記録に成功した。テープへの録音の中間段階ではドロップアウトが発生するため、SWTPC AC-30[11]カセットインターフェースをレコードカッティング装置に直接接続した。